清春白樺美術館(きよはるしらかばびじゅつかん)は、山梨県北杜市長坂町に所在する美術館。有料アトリエ、図書館などからなる文化複合施設清春芸術村(きよはるげいじゅつむら)の付属施設として開設されている。清春芸術村及び清春白樺美術館は、武者小路実篤や志賀直哉を始めとする白樺派同人による美術館構想を、親交のあった吉井画廊社長(当時)の吉井長三が私財を投じて実現した。吉井が、旧北巨摩郡長坂町の清春小学校(きよはる・しょうがこう)跡地を買い取り、4月に「清春アートコロニー」(清春荘)、翌年の1981年(昭和56年)4月にアトリエ「ラ・リューシュ」を建設。その後も美術館関連施設を順次建設及び移築、2003年(平成15年)には白樺図書館が開館した。吉井の依頼により、清春芸術村の基本設計は建築家の谷口吉郎が担当。谷口の死後は、息子谷口吉生が引き継ぎ、清春白樺美術館やルオー記念館の設計を担当した。清春白樺美術館の歴代館長は、西洋美術史家の三輪福松などがおり、2000年より画家岸田夏子(岸田劉生の孫)である。1925年(大正14年)の旧清春小学校の校舎落成の記念として植えられた桜の老木が敷地を囲み、春には桜の名所としても知られており、指定名称清春のサクラ群として1966年(昭和41年)5月30日に山梨県の天然記念物に指定されている。芸術村の中心となる施設、アトリエ「ラ・リューシュ」は、フランスのパリ、モンパルナスのアトリエ、ラ・リューシュ(蜂の巣)を模した物。清春芸術村においても有料の貸しアトリエとして利用することができる施設となっている。「ルオー礼拝堂」は宗教画家ジョルジュ・ルオーを記念した礼拝堂。ルオーが制作したステンドグラス「ブーケ(花束)」が窓を飾る。祭壇背後の十字架上のキリスト像は、ルオー自身が彩色し毎日祈りを捧げていた実物。次女イザベル・ルオーにより清春芸術村へ寄贈された。他の施設には、東京都新宿区市谷より移築した、吉田五十八設計による梅原龍三郎のアトリエがあり、傍らには鎌倉の小林秀雄旧宅より桜の木が移植されている。ちなみに鎌倉市の小林秀雄旧宅も吉井画廊が保存、管理している。また、吉井長三の友人であり、清春芸術村建設にも協力した岩波書店元会長で文人画家としても知られた小林勇の旧居「冬青庵」を移築した和食処もある(冬青は小林の雅号)。他に藤森照信が設計し、漆喰塗り作業を縄文建築団メンバー赤瀬川原平、南伸坊、林丈二らが協力して建設した茶室『徹』(命名は作家の阿川弘之)、美術館に隣接したレストラン 『ラ・パレット』、エッフェル塔の螺旋階段の一部などがある。岩波書店会長の小林勇と吉井長三の交友は、小林の絵画展「冬青展」の開催を吉井画廊で引き受けて以来のもので、青春芸術村、青春白樺美術館の実現に向けてのよき相談相手でもあった。旧清春小学校校舎がまだ残っている頃に、両人で現地視察した。その際小林は、木造校舎を活用し、特に品川駅の天ぷらそばがうまいので、持ってこようと提案した。すでに実地調査を済ませた建築家の谷口吉郎から、老朽化した校舎の活用は不可能な上、美術館やレストランの配置にいたる具体案が既に示されていた事から、吉井が小林の提案を謝絶すると、小林は激怒して去っていった。同じ頃、青春芸術村及び美術館建設には、地元の長坂町の町議会議員の一部が頑強に反対しており、吉井も一時はあきらめかけていた。小林は吉井に内緒で一人現地に足を運び、反対派の町議会議員を説得し、吉井に電話でその旨を告げたという。その後、小林が病に倒れてからも、吉井は病床に出向いては芸術村建設の進捗状況を詳細に報告していたが、小林が現地を再訪する事はついに叶わなかった。1999年から2007年まで尾道市久保に分館の尾道白樺美術館があった。同館の施設等は尾道市に寄付され2008年に尾道大学の施設として再開館している(2012年4月に尾道大学が公立大学法人へ移行し現在の名称は尾道市立大学美術館となっている)。
出典:wikipedia
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