キャット・スティーヴンス()とは、イギリスのミュージシャン、ユスフ・イスラム(、1948年7月21日 – )のかつての芸名。彼はロンドン出身のシンガー・ソングライター、教育家、慈善活動家であり、イスラム教への改宗者としても知られている。キャット・スティーヴンスとして1960年代後半以来世界中で6000万枚以上のアルバムを売り上げた。スティーヴンスのアルバム『父と子』と『ティーザー・アンド・ファイヤーキャット』はアメリカ合衆国だけでそれぞれ300万枚以上のセールスを記録し、全米レコード協会によってトリプル・プラチナムに認定されている。つづく『キャッチ・ブル・アット・フォー』はアメリカ国内では発売後2週間で50万枚を売り上げ、ビルボード誌のアルバムチャートの首位の座を3週連続キープした。楽曲「ザ・ファースト・カット・イズ・ザ・ディーペスト」が4人の異なるアーティストによってそれぞれヒットしたことにより、彼の作品はふたつのASCAPソングライティング・アワードの表彰を受けている。栄光の頂点にあった1977年に、スティーヴンスはイスラム教に改宗する。その翌年に自らの名前をユスフ・イスラムに改めた彼は、ムスリム共同体の教育問題や慈善活動に身を捧げるために音楽業界を離れた。それから28年後の2006年にポピュラー・ミュージック界に復帰し、『アン・アザー・カップ』と題されたアルバムをリリースしている。2004年のマン・フォー・ピース・アワードや2007年のメディタレニアン・プライズ・フォー・ピースなど、世界平和を訴える活動によってこれまでにいくつかの賞を受賞している。現在彼は妻と5人の子供たちとともにロンドンのブロンズベリー・パークに住んでおり、毎年一時期をドバイで過ごしている。イスラムは本名スティーヴン・ジョルジオ、ギリシャ系キプロス人の父ステイヴロス・ジョルジオと、スウェーデン人の母イングリッド・ウィックマンの3番目の子供として生まれた。ロンドンのソーホーにあるピカデリー・サーカスから数ステップほど離れた場所に位置するシャフツベリー・アヴェニューで、彼の両親はムーラン・ルージュという名のレストランを営んでいた。当時一家は全員そこで働いており、店の上に住居を構えていた。父親はギリシャ正教徒、母親はバプテストであったが、スティーヴンスはマックリン・ストリートにあるセント・ジョセフ・ロマン・カトリック小学校というカトリック系の学校に通っていた。スティーヴンスがおよそ8歳のころに両親は離婚するが、その後もレストランを共同で経営し同居を続けた。12歳のとき、すでにピアノを弾けるようになっていたスティーヴンスは、加えてギターを演奏したり作曲を始めるようになった。それから数年後、母親はスティーヴンスを連れて母国のイェヴレに帰り、そこで彼は画家をしていた叔父の影響で絵画の技術を上達させることになる。16歳のとき、学校を離れた彼はハマースミス・アート・スクールに入学するが、そこでものちに放校されてしまう。スティーヴンスは自らの音楽家としてのキャリアを切り拓くことを決断したが、それでもデビュー後に彼はアルバムのアートワークを自ら手がけ、美術にいそしんでいる。なお、彼が最初にフォーク・ミュージックに影響をうけたのもちょうどこのころであった。彼はコーヒーハウスやパブで演奏するようになった。自分のギリシャ系の名前は覚えづらく芸名には相応しくないと考えた彼は、新たな名を探した。当時のことを彼はこう述懐している。「誰かがレコードショップで"スティーヴン・デメトレ・ジョルジオのアルバムはどこにあるか"と尋ねる光景が、私には想像できなかった。それにイギリスや、とくにアメリカでは、人々は動物を愛するからね」かくして彼が使うことにした芸名はキャット・スティーヴンス (Cat Stevens)であった。伝えられたところによれば、スティーヴンスの女友達が彼の瞳を「まるで猫のようだ」と言ったことがこの芸名の由来になったという。1966年、18歳のスティーヴンスはマネージャーでプロデューサーのマイク・ハーストに見出される。かつてスプリングフィールズというヴォーカル・グループの一員であったハーストはスティーヴンスのデモテープの編曲を手がけ、彼がレコード会社との契約をとりつけることができるように計らった。スティーヴンスの黎明期のシングル「アイ・ラヴ・マイ・ドッグ」と「マシュー・アンド・サン」(後者は1967年初頭に発表された彼のファースト・アルバムのタイトルにもなった)はイギリスのヒットチャートでトップ10にランクインし、続いてデビュー・アルバムもチャートに姿を現すようになった。それから2年ほど、彼はジミ・ヘンドリックスからエンゲルベルト・フンパーディンクまで、実に幅広いミュージシャンとともにツアーやレコーディングを行った。イギリスの公式チャートにおけるいくつかのヒットにより、スティーヴンスはティーン・ポップのセンセーションの一派と考えられていた。このような成功の原因のひとつは海賊ラジオ局「ワンダフル・レイディオ・ロンドン」が彼のレコードを流したことにあった。このラジオ局が終焉を迎えた1967年8月には、彼は同様にして利益を得たほかのアーティストとともに放送に参加して閉鎖を惜しんだ。彼が1967年の12月に発売した2枚目のアルバム『ニュー・マスターズ』は、イギリスではチャートに入ることができなかった。このアルバムは現在「ザ・ファースト・カット・イズ・ザ・ディーペスト」を収録した作品としてよく知られている。この楽曲はこれまでP.P.アーノルド、キース・ハンプシャー、ロッド・スチュワートやシェリル・クロウといった多くのアーティストによってカヴァーされてその都度世界各国でヒットし、いくつかの作曲賞も受賞している。移ろいやすいポップ・スターとしての生活に身をおいた19歳のスティーヴンスは、1968年の初頭から重い結核に患わされるようになった。数か月の入院と1年の休業を余儀なくされた彼は自らの人生について疑問を抱きはじめ、瞑想にうちこんだり、さまざまな宗教についての書物を読んだりするようになった。菜食主義者に転向したのも当時のことである。精神世界への開眼や疑問から、スティーヴンスは初期の作品よりももっと内向的な40作もの楽曲を書き上げた。これらの作品の多くがその後数年間に発表された彼のアルバムの中に収録されることとなる。健康を取り戻し、国際的成功への足がかりとなる世界に自らの音楽を届けたいという新たなる熱意と一連の内向的な楽曲を携えた彼は、1970年にアメリカ国内でのレコードの配給先となるアイランド・レコードと新たに契約を交わす(当時北米でこのレーベルはA&Mとライバル関係にあった)。そこから最初に発売したアルバムが、初期のポップな作品とは趣を異にしたフォーキーで内向的な世界が描かれた『白いバラ』である。彼の当時のガールフレンドであった女優のパティ・ダーバンヴィルのことを歌った「白いバラ」、デビューまもない10代のころの経験を題材にした「ポップ・スター」、ジェネシスの当時のフロントマンだったピーター・ガブリエルがフルートで参加した「カトマンズ」などをフィーチャーしたこのアルバムは、1970年代に人気を博したソロのシンガーソングライターによる黎明期の代表作のひとつとして知られている。『白いバラ』に続いて発売されたのは、彼の世界的なブレイクを誘発した『父と子』であった。日常の風景や問題を題材にしつつ、なんらかの霊的イメージをまじえたキャッチーな歌詞を特徴とした彼の独特かつ新鮮な作風が確立されたこの作品は、全米ビルボード誌のアルバム・チャートでトップ10にランクインし、発売から半年後には合衆国内だけで50万枚以上を出荷してゴールド・ディスクに認定された。この作品には全米トップ20ヒット「ワイルド・ワールド」や「ハード・ヘッデド・ウーマン」、さらには曖昧な自伝のような歌詞が印象的な「父と子」が収められている。2001年にはアメリカ合衆国におけるこのアルバムの売上は300万枚に達し、全米レコード協会によってマルチ・プラチナムに認定された。2003年に『ローリング・ストーン』誌が発表した「史上最も素晴らしいアルバム500枚」のリストでは、この作品は206位にランクインしている。アルバム『父と子』の成功によって、彼はもはやほかのミュージシャンのコンサートで前座を務めるような存在ではなくなっていた。また、同時期には、スティーヴンスを題材にした「悲しい伝説」「瞳に恋して」などの楽曲を全米チャートにランクインさせたカーリー・サイモンとの交際も噂された。スターになった彼は、ギターやバック・コーラス、ハーモニー・ヴォーカルを務めるアラン・デイヴィーズをしたがえて、自身のコンサート・ツアーを開始する。セッションを通じて知り合った2人は、30年以上に渡る強固な友情を築いた。2008年2月28日にこの世を去るまで、デイヴィーズはほぼすべてのスティーヴンスのライヴ・パフォーマンスにおいて不可欠な存在であり続けた。1970年代初頭の作品において独自のサウンドを構築した彼は、その後数年に渡って順風満帆なキャリアを歩んだ。1971年のアルバム『ティーザー・アンド・ファイアーキャット』はビルボードのチャートで2位まで上昇して発売後3週間でゴールド・ディスクに認定された。エリナー・ファージョンが作詞した賛美歌のカヴァー「雨にぬれた朝」(ピアノはリック・ウェイクマンが演奏)や「ピース・トレイン」、「ムーンシャドウ」などのヒット曲がアルバムには収録されている。『父と子』と同様に米国で300万枚以上のセールスを記録したこの作品は、2001年に2作揃ってRIAAによるマルチ・プラチナムの認定を受けた。ボストン・ラジオ・ステーションによるインタビューの中で、スティーヴンスはアルバム『ティーザー・アンド・ファイアーキャット』についてこう述べている。"I get the tune and then I just keep on singing the tune until the words come out from the tune. It's kind of a hypnotic state that you reach after a while when you keep on playing it where words just evolve from it. So you take those words and just let them go whichever way they want... 'Moonshadow'? Funny, that was in Spain, I went there alone, completely alone, to get away from a few things. And I was dancin' on the rocks there... right on the rocks where the waves were like blowin' and splashin'. Really, it was so fantastic. And the moon was bright, ya know, and I started dancin' and singin' and I sang that song and it stayed. It's just the kind of moment that you want to find when you're writin' songs."『ティーザー・アンド・ファイアーキャット』が発売された年に、彼はいくつかの楽曲を映画『ハロルドとモード 少年は虹を渡る』のサウンドトラックに提供した。それらの作品は後年にベスト盤がリリースされるまで、彼の他のどのレコードでも聴けなかったものである。映画は長年に渡ってカルト的な人気を誇っており、スティーヴンスが音楽活動を休止していた期間にも彼の音楽の魅力を広く大衆に知らしめるきっかけの作品となった。1972年に発売されたスティーヴンスの次のアルバム『キャッチ・ブル・アット・フォー』は、彼にとって最も短期間のうちにアメリカ合衆国で成功を収めた作品である。アルバムはわずか15日でゴールド・ディスクに達し、「ビルボード」の首位を3週間にわたって保持した。内省的でスピリチュアルな歌詞は前二作を踏襲しつつも、歌唱やサウンドの面では以前よりエッジの効いた作風がこのアルバムの特徴となっている。「スウィート・スカーレット」はカーリー・サイモンが彼について書いた2曲の作品に対するアンサー・ソングである。この作品からは「人生はさすらい」がシングル・カットされ、HOT100で16位まで上昇した。発売から29年後の2001年に、アルバム『キャッチ・ブル・アット・フォー』は全米でプラチナ・ディスクに認定された。1970年代に発売された一連の彼のレコードは、いずれもチャート上での安定した成績を収めた。彼がキャット・スティーヴンス名義で発表した最後のアルバムとなったのは、1978年暮れの『バック・トゥ・アース』である。彼が現役として活動していた時期から現在までに、数枚のベスト盤が発売されている。最も商業的に成功したのは1975年に発売された『グレイテスト・ヒッツ』で、このアルバムはアメリカ合衆国だけで400万枚以上のセールスを記録した。2003年5月には『Remember Cat Stevens』と題されたベスト盤の欧州各国での総売上が100万枚を突破したことにより、 彼は国際レコード産業連盟によって表彰されるプラチナム・ヨーロッパ・アウォードの一人目の受賞者となった。1977年に発売されたイギリスの歌手エルキー・ブルックスとのデュエット「想い出のスクールヤード」は、スティーヴンスが最後にチャートに送りこんだヒット曲である。ちなみに、この曲が発売された際、ブルックスの名はふせられていた。彼のキャット・スティーヴンス名義での実質的な最後のライヴとなったのは、1979年11月22日にウェンブリー・スタジアムで開かれたユニセフによる慈善目的のザ・イヤー・オブ・ザ・チャイルド・コンサートであった。When Stevens nearly drowned in an accident in Malibu in 1975, he reports having pleaded with God to save him. Stevens described the event in a VH1 interview some years later: "I suddenly held myself and I said, 'Oh God! If you save me, I'll work for you.'" The near-death experience intensified his long-held quest for spiritual truth. He had looked into Buddhism "Zen and I Ching, numerology, tarot cards and astrology
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