竹原(たけはら)は、広島県南中部の地名。瀬戸内海に面する。本項では、江戸時代中期から明治にかけての町並みが残り安芸の小京都と呼ばれる商家町(町並み保存地区。国の重要伝統的建造物群保存地区として選定)の歴史と特徴について述べる。古代、この地の中心は賀茂川中流域の新庄地区であり、飛鳥時代に(古代)山陽道が整備されると駅家「都宇駅」が置かれ、大化の改新の頃に湯坂温泉郷が宿場町として出来上がった。寛治4年(1090年)、中央政府が賀茂社(賀茂御祖神社いわゆる下鴨神社)に寄贈した荘園の中に「安芸国竹原荘40町」があった。これが竹原の名の初見である。これ以降、この地は下鴨神社の荘園として発達、「賀茂」の名はこの頃から定着した。中世の末頃から港を控えた市場集落として下野村の海岸付近(右地図の中通表記付近)に馬橋古市が形成された。この市場集落は戦国時代までは機能したが、賀茂川からの流出土砂により港湾機能は失われ、天文9年(1540年)からそれより河口の下市村にその機能が移っていった。この下市村が現在の竹原町並み保存地区にあたる。江戸時代初期、港町に加え製塩町となっていく。正保3年(1646年)広島藩により賀茂川下流を干拓し新開が形成され、当初は新田開発を行うつもりだったが土壌に塩分が多く耕作には不適であったため、赤穂(浅野氏としては広島藩が宗家で赤穂藩が分家になる)から製塩の技術者を招き塩田に転換、慶安3年(1650年)に製塩を開始すると産出に成功した。広島藩としては初めての入浜式塩田の成功であった。承応元年(1652年)までに塩田は拡大、この地に大きな富をもたらした。これに平行して、正保4年(1647年)本川堀の船着き場が開かれると、慶安2年(1649年)藩の年貢集積所”浦辺御蔵所”が設置されると米の積出港として、さらに塩田開発が進むと塩の積出港として栄え、廻船の往来も活発となった。慶安4年(1651年)から寛文4年(1664年)にかけて竹原代官の指図でこの地は整備され近代的な港湾都市へと変貌していった。元禄期から正徳期には竹原の船主による四百石船から千石船も就航している。こうした廻船によって塩その他の産物は日本各地に出荷され、帰りには北日本から米を運びさらには大阪への輸送も請け負うなど海運業も栄えた(北前船)。そして米が大量に流通していたことから、これを原料として酒造業が始まっている。のち「安芸の小灘」といわれ藩内でも有数の生産地へと成長していくが、藩による販売制限があったことや天明の大飢饉などで米の供給量が制限されたことにより発展は続かなかった。一方で享保年間末期には、他産地の成長に伴って市場は供給過剰となり塩の値段は下落し、製塩には塩分の濃縮のため大量の薪が必要であるが周辺の森林の減少を招いたため巻価格が上昇したことにより、収支バランスが崩れ、宝暦・明和年間(1751年から1971年代)には塩田経営は不況となった。この中で塩田の大規模化や質見世・酒造業・廻船業・問屋業など多角経営化に成功し財をなした商家が誕生し、大きな邸宅を構えるようになり現在に残る町並みや寺社仏閣が形成されるに至る。経済の発展と共に町人文化も充実し、茶道など京風の文化が栄えた他、儒学者の頼山陽の父頼春水とその兄弟である頼春風・頼杏坪をこの街から輩出している。明治・大正時代もこの地は竹原の中心であった。酒造業が花開いたはこの頃である。藩による規制が解かれた明治維新前後、酒造業は自由販売・自由免許制となり、更に県外へと販路を求めた。ただ他の産地との販売競争する中で、酒質の向上が求められるようになり、明治21年(1888年)茂郡南部酒造組合を結成、酒造業者一致団結して向上に努めることとなった。そこへ三浦仙三郎の尽力により竹原のみならず広島の酒の質は全国有数のものになっていった。明治40年(1907年)には、第一回全国清酒品評会(現:全国新酒鑑評会)にて三浦仙三郎の指導のもと、藤井酒造の龍勢が全国3000を越える醸造所の中から首席第一等を受賞している。製塩は専売制となったことにより、明治後半時点でこの地の産業は製塩を抜き酒造が一番目を占めるようになる。こうした中で生まれ育ったのが竹鶴政孝である。昭和7年(1932年)国鉄三呉線(呉線)開通により本川に鉄橋がとおり船の出入りができなくなったため、港湾施設はその南に移され、これが現在の竹原内港となる。昭和33年(1958年)竹原市制施行、昭和35年(1960年)塩田が廃止されると、以降旧塩田地の開発が進み竹原の中心は西へ移っていった。昭和57年(1982年)12月「重要伝統的建造物群保存地区」選定、平成12年(2000年)「都市景観100選」に選定された。竹原の町並みの特長は、一つの街区がそのまま伝統的な建築で構成されており、複数の町筋や寺院、辻堂等が一帯となって町並みが構成されていることである。特に本通りに立って南北を見通すとごく一部を除きほとんどが商家建築で、日本の伝統的な商家町の様子を知ることが出来る。町筋が形成されたのは江戸時代初期で、南北に縦断する”本通り”を中心に、”大小路””板屋小路””中ノ小路”など多くの路地によって形成されている。現存する町屋の大半が江戸時代中期から明治時代に建てられたもの。最古の建物は元禄4年(1691年)建造の吉井邸。各家屋は様々な意匠を組み合わせた格子が特徴で、1階に材木を組み合わせた出格子や平格子、高さを抑えた2階には漆喰を施した塗り込め格子が用いられる。大規模な邸宅は多棟連結型の例が多く、奥座敷や茶室が設けられている。一方で戸建ての町屋や長屋の連なる横町も存在する。これに加え近代以降に建てられたモダン建築が変化をもたらしながらも全体として調和されている。以下、国あるいは県市の文化財指定されているもの。以下、文化財指定されていない主なもの。
出典:wikipedia
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