アート・トリップ (Art Tripp) ことアーサー・ダイアー・トリップ3世(Arthur Dyer Tripp III 、1944年9月10日 - )は、アメリカ合衆国オハイオ州生まれのカイロプラクターであり、フランク・ザッパ&ザ・マザーズ・オブ・インヴェンションやキャプテン・ビーフハート&ザ・マジック・バンドでパーカッショニストとして活動していたことで知られる元ミュージシャンである。アート・トリップはペンシルベニア州ピッツバーグで育ち、小学校4年生のときに学校のバンドでドラムの演奏をはじめた。高校時代には、結婚式やフラタニティのパーティ、またダンス・パーティなどでバンドとともにドラムを演奏した。その後ピッツバーグ交響楽団のティンパニ奏者スタンリー・レナードに弟子入りし、シロフォン、ティンパニ、マリンバその他十数種類にも及ぶ打楽器の演奏法を学んだ。1961年にシンシナティ大学音楽院 () へ進学。指導教官はシンシナティ交響楽団の打楽器奏者 Ed Weubold であった。トリップはシンシナティ交響楽団の正式なメンバーとなり、イーゴリ・ストラヴィンスキーやアイザック・スターン、レナード・ローズ、ホセ・イトゥルビといった高名な音楽家たちと共演した。1966年、アメリカ合衆国国務省はこの交響楽団を10週間の世界ツアーに送り出し、若きパーカッショニストにさらなる刺激を与えた。この間のトリップはデイトン・フィルハーモニー管弦楽団で2期、シンシナティ・サマー・オペラとシンシナティ・ポップス・オーケストラでもそれぞれ1期のあいだティンパニストとして活動している。また前衛音楽家ジョン・ケージがシンシナティ大学音楽院に籍を置いて教鞭を振るうことになったときに、ケージは演奏やワークショップのさいの協力者としてトリップを指名している。1966年に音楽学士の学位を取得し、1967年には奨学金を得てニューヨークのマンハッタン音楽学校へ進む。目的は音楽修士号取得のためであるが、現代音楽の世界への露出をつづけることも視野に入れていた。元フィラデルフィア管弦楽団のティンパニスト、フレッド・ヒンガーが指導にあたった。ヒンガーはのちにメトロポリタン歌劇場のオーケストラで打楽器を演奏し、何人かの弟子を育てている。ニューヨークにおいて、トリップはフランク・ザッパのレコーディング・エンジニアであったリチャード・クンツに紹介された。ザッパは、知遇を得たこのパーカッショニストこそ自分が求めていたような知識と経験を兼ね備えた人物であることをクンツから聞き知り、ニューヨークのグリニッジ・ヴィレッジにあるアポストリック・スタジオにトリップを招いて、一緒に演奏してほしいと頼みこんだ。トリップはバンドに加入し、ザッパ&ザ・マザーズ・オブ・インヴェンションのアルバム7枚をレコーディングすることとなった。アメリカやヨーロッパを巡る多くのツアーにも同行して演奏した。1968年のはじめ、バンドはハリウッドに戻ることとなった。ザッパはトリップとその他2名からなる小さなユニットを結成するためにマザーズを解散し、個人名義での演奏活動を開始した。これにともなって、その後のアルバム・タイトルからは「マザーズ」の文字が消えている。トリップはキャプテン・ビーフハートことドン・ヴァン・ヴリートと行動をともにして一緒にプロジェクトを立ち上げることをかねてより相談していたため、機会が訪れると同時にキャプテン・ビーフハート&ザ・マジック・バンドに参加した。同じころにはチャド・スチュワートやブラザーフッド・オブ・マンともレコーディングしている。スマザーズ・ブラザーズ () のサマー・スペシャルのためにパーカッション奏者として雇われたり、ステージ・ショー "" のピット・オーケストラの打楽器奏者のオファーを受けたりもした。トリップはビーフハートともに北カリフォルニアへ移住することに決めた。これ以降の5年間が多くのレコーディングや、アメリカやイギリス、その他ヨーロッパ諸国への度重なるツアーのために割かれた。この時期にもライ・クーダーやオーネット・コールマンからアルバムの共同制作の話をもちかけられているが、トリップはマジック・バンドとのリハーサルやツアー以外のことに時間を費やすのを避けるため、これらの依頼は断っている。しかし結局のところ、内部での悶着が原因となって、グループそのものがビーフハートの元を去ることとなった。メンバーたちは新曲の作曲とリハーサルをはじめ、ジェスロ・タルの強力な支援(ドラマーのバリモア・バーロウとギタリストのマーティン・バレはレコーディングにも参加した)のもとでアルバム『マラード』として完成した。しかし、トリップはこのころにはすでに音楽ビジネスに失望しており、ピッツバーグへ戻って父親とともに保険業者となることを選んだ。3年の時を経て、保険産業はやはり自分の望んだ職業ではないと自覚したトリップは、音楽業界への復帰を決意する。ハリウッドへ戻ってイアンとルース・アンダーウッド夫妻のもとに滞在し、スタジオ・ミュージシャンとして働きながらアル・スチュワートといったアーティストやその他の商業音楽製作者のためのレコーディングに携わった。しかし、スタジオ作業にはコンサートのような魅力がなかったため、またしても音楽の仕事に幻滅するようになった。ちょうど同じころ、トリップはジョン・ハンソン医師にカイロプラクティック治療を求めた。このハリウッドの開業医は、患者である音楽家の中に優れたカイロプラクターとなる天賦の才を見出した。トリップは16歳のころからカイロプラクティック治療を受けていたこともあり、この治療法に対して強い賛嘆の念を抱いていたため、1978年よりすぐに本格的なカイロプラクティックの勉強を開始した。1983年にカイロプラクティックの免許を取得し、トリップはカリフォルニア州ユーリカで開業した。カリフォルニア州政府のいや増す圧政に嫌気がさした2000年にトリップはミシシッピ州ガルフポートに居を移し、この地で成功した開業医として治療をつづけている。
出典:wikipedia
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