御府(ぎょふ)とは、皇居の吹上御苑の南端にある木造倉庫群を総称した呼び名である。「朕が子々孫々に至るまで、永く保存して忠勇なる陸海軍の功績を不朽に伝ふ」ために建てられた施設で、大日本帝国が参戦した戦争の戦利品や記念品、また戦没者の名簿が納められていた。戦後は廃止され、戦利品は関係各国に返還された。現在も倉庫として利用されており、天皇の所有物や宮中儀式の用具が保管されている。戦争毎に五つの施設に分かれていた。日清戦争、征台の役がおわったのち、明治天皇が忠勇な日本陸海将士の勲功を保存しようという聖旨により開戦後奉献された戦利品をおさめ、戦死諸勇士の肖像をあつめ、その姓名を勒して陳列し、これを振天府と命名した。中央に東西82尺、南北20余尺の本館と、その西、廊をへだててわずか2間余の御休所からなる。本館正面楣上には、小松宮彰仁親王が勅を奉じて書いた府の題額がかかげられ、館内南側には海軍戦利品を、北側には陸軍戦利品をそれぞれ戦闘の順番によって陳列され、御休所の床には広島大本営の図がかけられ、柱の時計にも1吊(つり)の花生もともに広島駐輦中玉輦の側ちかくに使用したもの、なかでもその花瓶は一名「四兵の御花生」といい、歩、騎、砲、工4兵科の武器の一片ずつをあわせて、天皇がしたしく考案して従軍将士の労苦を日夕あわれんだ記念の品であった。なお、御休所の北に、参考室があり、ここに有栖川宮熾仁親王、北白川宮能久親王以下、陣没陸海両軍将校の写真をかかげ、室内3段の棚には戦病死将卒1万626人の姓名を録した十数巻の巻物が安置されていた。またべつに鹵簿の大砲をおさめた砲舎があり、庭上には清国兵が威海衛の海軍公署にたてた帆檣、敵艦定遠号の水雷防御鉄網、金州城永安門の門扉等が配置されていた。府の設計意匠はもちろん、凡百の列品の陳列にいたるまで、ことごとく天皇の案に出て、将士の写真を額面にはさむまでてづからおこなったとつたえる。また、有光亭(ゆうこうてい)という、日清戦争威海衛戦の鹵簿品をもって構築された建造物が振天府参考室の西にあった。四阿つくりで、きわめて淡雅で、その梁柱は清国兵が港口に沈置した防材をもちい、周壁は敵の砲台にあった砲門上の石額で築かれ、楣上にかかげられた額は有栖川宮威仁親王が勅命を奉じて揮毫したもので、背面に文事秘書官股野琢撰有光の亭記がしたためられていた。霜錦亭の北にあった。明治天皇が、明治33年義和団の乱平定ののち、日本将士の勲労をつたえようという叡旨によって、戦利品をおさめ、陣没将卒の肖像と名簿を保管するために造営された。昭和43年に東御苑に移設され、諏訪の茶屋として一般公開されている。日露戦争ののち、明治天皇が忠勇な日本将士の英烈をつたえようという聖旨にもとづき考案して造営し、勅を閑院宮載仁親王にくだして、題額を揮毫させた。中央本館は東西65尺、南北26尺、南面してたてられ、海陸両軍の戦利品をおさめた。前庭西側に曲廊を架して、これに連続する2階建て別館には戦病将卒の写真、姓名録、ならびに日本軍が使用した小型武器、被服等がおさめられ、のちに当時出征した後備歩兵聯隊にさずけられた軍旗50余が追加陳列された。このほかに日本軍使用の大型武器を陳列した一宇と、戦利に属する大型武器を陸海両軍にわかって格納されていた二宇の舎屋があった。建安府の西にあり、大正3、4年対独戦争終了後、大正天皇が日本兵がイギリス軍と力をあわせ、青島を包囲してこれをやぶったときの戦利品を保存しようという叡旨により、明治天皇の振天、懐安などの諸府の制にならって造営したもので、題額は東伏見宮依仁親王が勅を奉じて揮毫したものである。
出典:wikipedia
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