ファビウス氏族(Fabii)は、古代ローマの氏族のひとつ。主に共和政ローマ前期より活躍し、元老院の守護者として名を残す。共和政ローマを代表する名門氏族だといえる。ファビウス氏族の名が歴史に現れるのは紀元前5世紀頃。このときローマは共和制初期であり、戦争に次ぐ戦争で領土を拡大していたが、新たに獲得した土地の配分をめぐって平民と貴族の間で不和が生まれていた。紀元前486年、執政官となったスプリウス・カッシウスは平民との宥和を考え、ヘルニキ人と戦って獲得した土地の半分を平民に分配し、もう半分を同盟者のラテン人に配分することを提案した。これは後の世にも問題となる農地法の、最初の提出である(これより約400年後のグラックス兄弟やガイウス・ユリウス・カエサルのときにも農地法が提出され、そのたびに大騒動を引き起こしている)。だがこれは貴族の意向を受けた同僚執政官のプロクルス・ウェルギニウスが反対する。また平民も、カッシウスが土地の半分を同盟者に譲ってしまうことに不満を抱いた。カッシウスは公職を退いたあとすぐに処刑されてしまうが、そのとき彼を弾劾したのがファビウス氏族のカエソ・ファビウスであり、処刑されたのはカエソの兄弟であるクィントゥス・ファビウスが執政官を務めていた年だった。さらにクィントゥス・ファビウスは、ウォルスキ人とアエクィ人との戦いで勝利した際の戦利品を兵士(ほとんどが徴兵された平民であった)から没収し、国庫に収めてしまった。そしてその次の執政官となったカエソ・ファビウスは農地法問題を先送りする。これによりファビウス氏族は貴族からの名声を得たが、平民から憎悪されることとなる。カエソ・ファビウスが執政官であった頃、ウェイイ人とアエクィ人はローマの領土で略奪を働き、首都ローマを攻撃する気配を見せた。これを受けてローマでは戦争準備が始まったが、執政官に反感を持つ平民たちは軍務忌避という手段をとった。これは護民官スプリウス・リキニウスの主導によるものだったが、彼はやがて同僚護民官からも軍務忌避はやりすぎだと非難されるようになり、徴兵が行われた。だが実際に戦争が始まると、戦闘自体はカエソ・ファビウスの巧みな指揮で勝利を収めることができたが、兵士達はその後の追撃を拒否し、指揮官を呪う言葉を吐きながら勝手に退却をしてしまう。これは無視できない重大な軍規違反であったが、対処はなにも行われなかった。次の執政官も貴族の後押しを受けてファビウス氏族であるマルクス・ファビウスが当選し、平民との溝はさらに深くなる。だがそのころ、先の戦争でローマ内部に不和が起こっているのを知ったウェイイが、全エトルリア人を集めてローマを滅ぼそうと宣戦を布告した。ローマの平民と護民官はこの期に及んでも軍務忌避を行ったが、アッピウス・クラウディウスが護民官を説得してなんとか徴兵が実施される。そしてローマ軍はウェイイ・エトルリア連合と対陣したが、マルクス・ファビウスはこのままでは前のような命令拒否で満足に戦えないと判断し、全軍を陣地にこもらせ出撃を命じなかった。これに調子をよくしたエトルリア人達は、ローマの陣営に向けてさかんに侮辱的な罵声を飛ばす。この状況にローマ兵の若手達から不満の声があがり、執政官に出撃を求めたがそれは拒否された。やがてエトルリア人からの罵倒はますます激しくなり、今度はローマの全兵士が執政官のもとに出撃命令を出せと詰め寄った。同僚執政官のグナエウス・マンリウスが譲歩しかけたとき、マルクス・ファビウスはこう発言した。「兵士達が勝利することはわかっているが、彼らが勝利を願っているのかがわからない。兵達が勝利者として戻ってくると神に誓わない限り、私は出撃命令を出さない」この言葉を聴いて、全兵士が勝利を神に誓った。そして出撃命令が出され、ローマとウェイイ・エトルリア連合との戦いが始まった。戦いに参加したファビウス氏族の男達はみな勇敢に戦い、前々回の執政官を務めたクィントゥス・ファビウスは最前線で剣を振るい、華々しい戦死を遂げた。このときの戦いは執政官のグナエウス・マンリウスが戦死するほど激烈なものであったが、エトルリア人は包囲殲滅され、ローマにとって比類ない勝利となった。元老院はこの勝利を祝って生き残った執政官であるマルクス・ファビウスの凱旋式を提案したが、マルクスはクィントゥス・ファビウスおよび同僚執政官の死を悼んで、凱旋式を辞退した。誰もが望む栄誉である凱旋式を自ら断ったことにより、ファビウス氏族は平民からも多くの賞賛を受け、次の執政官選挙のときにカエソ・ファビウスは貴族だけではなく平民の支持も受け再選される。ウェイイは大打撃を受けたがローマと講和を行わず、ゲリラ戦を継続した。すなわちローマの領土で盛んに略奪を行うが、ローマ軍が編成され近づいてくると、戦わず都市に立て篭もってしまうのである。当時はアエクィ人やウォルスキ人がローマの隙をうかがっており、サビニ人やエトルリア人もローマに対して敵意を抱いているため、ウェイイのみに専念することができなかった。これを憂慮したカエソ・ファビウスは驚くべき宣言をする。ローマ軍を動かすことなく、ファビウス氏族だけで軍を編成し、ファビウス氏族の私費でウェイイと戦争を行うとしたのだ。この決断は全ローマ市民が賞賛し、ファビウス氏族の名声は最高潮に達した。306人のファビウス氏族と4000人のクリエンテスはウェイイとローマの境界線付近に陣取った。そしてウェイイの略奪を防ぎ、何度かウェイイの軍勢と会戦を行いこれに勝利する。一氏族の私費の軍隊に負けたという屈辱はウェイイを怒らせ、彼らは計略を用いてこれを壊滅させようと考えた。それからしばらくの間、ファビウス氏族が現れるとウェイイ軍は無様に逃げ回り、ファビウス氏族が略奪を始めると偶然を装って家畜の群れを捕まえさせるなどといったことが続いた。これによってファビウス氏族は増長し、ローマから遠く離れたところまで略奪を行うようになった。ある日、いつものように略奪行に出ているときに家畜の大群を発見。家畜はすぐに散り散りになって逃げ始めたので、ファビウス氏族は隊列を崩してこれを捕らえ始める。だが家畜を追うのに夢中になっているうちに、彼らはエトルリア人の伏兵に完全に包囲されていた。ファビウス氏族は必死に楔形陣形をとりなんとか包囲を突破して丘に陣をはったが、そのときウェイイ軍の本隊が突然背後から現れて襲い掛かり、その場でファビウス氏族の306人は一人残らず戦死した。この出撃の際にファビウス氏族はカルメンタリスの門(ローマのカピトリヌスの丘の南西隅にあった)を通ったため、これ以降ここは「不幸の通路」と呼ばれるようになった。またファビウス氏族はこのときたった一人の幼い男子だけを残して全滅したため、これよりしばらくローマの歴史に現れなくなる。しばらく歴史から姿を消したファビウス氏族であったが、紀元前4世紀頃から再び名前が現れてくる。クィントゥス・ファビウス・マクシムス・ルリアヌスは、サムニウム戦争で大きな戦果を挙げ、最終的に独裁官にまで任命された。紀元前3世紀頃、二度も独裁官に任命されたクィントゥス・ファビウス・マクシムスが歴史に登場する。彼は第二次ポエニ戦争の際、戦争の天才であったハンニバル・バルカ相手に徹底した持久戦を行ったため、市民からクンクタトル(のろま、ぐずの意味)と貶された。だが相手に勝利を掴ませない戦略は短期決戦を望むハンニバルを苦しめ、やがて市民も彼の戦略の正しさを認め、クィントゥス・ファビウス・マクシムスは「ローマの盾」とあだ名されるようになった。また同時代のクィントゥス・ファビウス・ピクトルはローマ最初の歴史書を執筆し、彼の書はポリュビオス、リウィウス、ハリカルナッソスのディオニュシオスなど後世の歴史家にも引用された。
出典:wikipedia
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