小西氏(こにしし)は、日本の氏族の一つ。豊臣秀吉に仕えた戦国大名・小西行長の一族は藤原北家秀郷流を称し、丹波内藤氏の一族久清の子次忠(小西行正)を直接の祖とする。この次忠の子が堺の豪商出身とされる小西隆佐である。隆佐は羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)に接近し信頼を得てこれに仕え、立身する。一族の多くも行動を共にし、四人の息子のうち如清・行長の二人は直臣として秀吉に仕え、主殿介と末弟与七郎は行長の家臣となった。このほか甥に小西アントニオがおり、行長家臣となっている。通字は「行」であり、代々相伝の幼名は「弥九郎」と考えられる。隆佐の次男・行長は一時宇喜多直家に仕え、直家と秀吉の間の使者を務めた。直家の死後は秀吉に仕え、気に入られるところとなったのか最終的に天正16年(1588年)ごろ肥後南半国24万石を領した。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは石田三成や宇喜多秀家との縁から西軍に属するが敗北、行長は首謀者の一人として斬首される。弟の行景は宇土城を守るが加藤清正に攻められ関ヶ原本戦の西軍敗北が伝わると開城し自刃した。これにより大名小西氏は滅亡する。行長の長男は毛利輝元によって処刑され、息子の1人はその二代後までは黒田氏の家臣浅山氏(新参、1300石)として確認できる。宗義智に嫁いだ娘のマリア(洗礼名)は離縁されその後は不明(一説に長崎の修道院に保護され、慶長10年に病没したとも)。マカオに追放されローマで修行して日本に帰国、処刑された明治時代以前の最後の日本人司祭・マンショ小西は行長の孫(マリアと宗義智の子か?)といわれている。なお、行景の子孫は武家として存続した。ルイス・フロイスらと交流があり、一家揃ってキリシタンだったことでも知られる。行長流の小西氏の他、堺・京都には多くの小西姓の商家が存在している。このほか長束正家家中にも小西氏が見られる。このほか近江源氏佐々木氏の一族に小西氏が存在する。この系統では山岡道阿弥に仕え関ヶ原の戦いに際して小早川秀秋の寝返りを決定付けた小西正重が知られている。正重は後徳川旗本となった。
出典:wikipedia
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