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浜風 (陽炎型駆逐艦)

浜風(はまかぜ)は、大日本帝国海軍の駆逐艦。艦名表記は、正しくは濱風である。一等駆逐艦陽炎型の13番艦である。艦名は初代浜風(磯風型駆逐艦)に続いて2代目。第17駆逐隊に所属した姉妹艦と太平洋戦争の主要な海戦に参加。戦艦武蔵、金剛、空母蒼龍、飛鷹、信濃といった帝国海軍主力艦の沈没に遭遇し、自らも1945年(昭和20年)4月7日の坊ノ岬沖海戦で戦艦大和と共に撃沈された。陽炎型駆逐艦13番艦浜風は、仮称第29号艦として浦賀船渠で1939年(昭和14年)11月20日起工された。浦賀船渠で建造された姉妹艦は浜風のほかに2番艦不知火、5番艦早潮、10番艦時津風、17番艦萩風、19番艦秋雲がある。1940年(昭和15年)11月15日附で命名、同日には戦艦武蔵も命名されている。11月25日進水、1941年(昭和16年)6月30日に竣工、呉鎮守府籍に編入され、同日附で第17駆逐隊に加わる。第17駆逐隊は1940年12月15日に新編されて既に陽炎型11番艦浦風、12番艦磯風、14番艦谷風が所属しており、浜風の編入で4隻体制となった。太平洋戦争開戦時、第17駆逐隊は第一水雷戦隊(司令官大森仙太郎少将:旗艦阿武隈)に所属し、南雲機動部隊の護衛艦として真珠湾攻撃に参加。その後も僚艦と共に空母機動部隊護衛のためラバウル攻略、ダーウィン空襲、ジャワ島攻略、セイロン沖海戦に従事した。3月6日、機動部隊司令長官南雲忠一中将は、第二航空戦隊(司令官山口多聞少将:空母蒼龍、飛龍)、第三戦隊第2小隊(3番艦榛名、4番艦金剛)、第17駆逐隊(谷風、浦風、浜風、磯風)の8隻で別働隊を編制、機動部隊本隊から分離して残敵掃蕩を命じた。3月7日早朝、空母2隻の護衛に第2小隊(浜風、磯風)を残し、金剛、榛名、谷風、浦風の4隻はクリスマス島艦砲射撃を実施した。4月、第17駆逐隊は第十戦隊に編入され、引き続き機動部隊護衛艦として行動した。6月上旬、ミッドウェー作戦に参加。6月5日、アメリカ軍機動部隊艦載機SBDドーントレス急降下爆撃機の攻撃で主力空母4隻(赤城、加賀、蒼龍、飛龍)は被弾炎上した。浜風と磯風は蒼龍の救援を行い、沈没した蒼龍の乗組員を救助した。この戦闘で第17駆逐隊では谷風、磯風が入渠修理を要する被害を受けた。1942年(昭和17年)8月7日にアメリカ軍がガダルカナル島とフロリダ諸島に上陸してガダルカナル島の戦いがはじまると、浜風は8月8日に本土を出港。8月18日-19日、第4駆逐隊司令有賀幸作大佐指揮下の陽炎型6隻(嵐、萩風、陽炎、谷風、浦風、浜風)は、陸軍一木支隊先遣隊をトラック泊地からガ島へ輸送した。揚陸成功後、ポートモレスビー攻略にともなうニューギニア方面作戦に従事するため第17駆逐隊は嵐、萩風、陽炎をガ島に残し、ラバウルへ帰投した。なお浜風等が送り届けた一木清直大佐以下陸軍兵約900名は、17駆がラバウルに到着した8月21日、イル川渡河戦で全滅している。8月17日附で、第17駆逐隊(谷風、浦風、浜風)は外南洋部隊護衛部隊(指揮官松山光治第十八戦隊司令官)に編入され、第十八戦隊(軽巡洋艦天龍、龍田)等と共に、ニューギニア島東部・ミルン湾のラビ攻略を目指すラビの戦いに加わった。8月24日朝、天龍、龍田、谷風、浦風、浜風および駆潜艇2隻は輸送船2隻(南海丸、幾内丸)を護衛してラバウルを出撃、連合軍機の空襲を受けつつ進撃した。25日夜、ミルン湾への上陸に成功するが、使用した海図が不正確だったため揚陸地点を間違え、上陸した海軍陸戦隊も陸上地図をもっておらず、窮地に陥る。十八戦隊と17駆は対地砲撃をおこなうが、無線での連絡も難しく、効果は不明だった。龍田、浦風が輸送船を護衛してラバウルへ帰投した後、天龍、谷風、浜風は引き続きミルン湾やラビ方面にあって対地支援を行う。日本側は泥濘と物量と連合軍航空攻撃により苦戦を強いられ、飛行場攻撃も失敗する。天龍、谷風がラバウルへ帰投した後、浜風は27日夜ミルン湾に突入して陸戦隊との信号連絡に努めたが、悪天候と視界不良のため失敗した。浜風は一旦ラバウルへ帰投した。8月28日、外南洋部隊指揮官三川軍一第八艦隊司令長官は第十八戦隊を基幹としてラビ攻略部隊を編成、兵力を増強する。29日、天龍、谷風、浦風と海軍陸戦隊を乗せた駆逐艦3隻(嵐、叢雲、弥生)および哨戒艇3隻がミルン湾に到着して上陸作戦を敢行する。だが夜襲攻撃に失敗し、対地砲撃で陸戦隊を支援するため龍田、浜風の派遣が決まる。2隻は8月31日夕刻にラバウルを出撃。途中で駆逐艦嵐(有賀司令)と哨戒艇2隻(安田部隊200名分乗)と合流すると、浜風は同部隊の護衛に加わった。このあと、ミルン湾に連合軍巡洋艦1・輸送船1入港の情報を得て嵐、浜風は同湾に突入したが、天候不良のため発見できず、陸戦隊との連絡にも失敗した。9月3日夜、嵐、浜風はようやく陸戦隊との連絡に成功。糧食や医薬品を陸上部隊に渡すと、ラビ方面を砲撃してラバウルへの帰途についた。9月5日朝、ラビ攻略部隊指揮官松山少将(十八戦隊司令官)はラビ方面上陸部隊の全面撤収を決断、第八艦隊司令部も同意した。南東方面部隊や陸軍第十七軍もガダルカナル島方面の重要性が増したこともあってラビ攻略作戦中止に反対を唱えず、撤退作戦がはじまる。9月11日、救出作戦に従事していた駆逐艦2隻(弥生、磯風)はラビ東方ノルマンビー島附近で空襲を受け弥生が沈没、第30駆逐隊司令も戦死した。同日夜、天龍と浜風はラバウルを出撃、12日に弥生沈没地点に到着して捜索を行うが、生存者を発見できなかった。弥生の生存者は9月26日になって磯風、望月に救助されている。東部ニューギニア方面の作戦が失敗に終わると、第17駆逐隊(谷風、浦風、浜風、磯風)はガダルカナル島の戦いに加わった。浜風は9月16日より、ガ島輸送に3回従事。10月下旬、南太平洋海戦に南雲機動部隊本隊(翔鶴、瑞鶴、瑞鳳)の直衛艦(熊野、雪風、天津風、時津風、初風、照月、嵐、舞風、浜風)として参加、11月7日、第4駆逐隊、第17駆逐隊、駆逐艦秋雲は空母翔鶴、瑞鳳、重巡熊野、筑摩等を護衛して日本本土に戻った。第17駆逐隊第2小隊(浜風、磯風)は瑞鳳と共に佐世保へ帰港し、佐世保工廠で修理。11月19日、第17駆逐隊第2小隊(浜風、磯風)は、竣工したばかりの阿賀野型軽巡洋艦阿賀野と共にトラック進出を下令される。その頃の日本軍はニューギニア方面の作戦を進展させるため、ニューギニア島北岸のマダンとウェワクを占領して飛行場を設置し、ラエ(モロベ州州都)、サラモアに対する後方基地として強化することにした(「ム」号作戦)。だがポートモレスビーの連合軍基地から激しい空襲を受ける可能性があり、外南洋部隊指揮官三川軍一第八艦隊司令長官はウエワク攻略部隊の上空警戒のため、第二航空戦隊(司令官角田覚治少将:空母《隼鷹》)と護衛部隊(軽巡《阿賀野》、駆逐艦3隻《磯風、浜風、村雨》)を派遣した。ウェワク攻略部隊(駆逐艦《巻雲、夕雲、風雲》、輸送船《清澄丸》)は12月16日12時ラバウルを出撃、マダン攻略部隊(軽巡《天龍》、駆逐艦《荒潮、涼風、磯波、電》、輸送船《愛国丸、護国丸》)は同日18時にラバウルを出撃した。母艦航空部隊(隼鷹、阿賀野、磯風、浜風、村雨)もトラック泊地を出撃、同部隊の援護を受けたウェワク攻略部隊は、特に大きな戦闘もなく18日夜にウェワク揚陸に成功した。一方、マダン攻略部隊は12月18日の空襲で護国丸が中破、潜水艦アルバコアの雷撃で天龍が喪失した。1943年(昭和18年)2月上旬、第17駆逐隊(谷風、浦風、浜風、磯風)はガ島撤退作戦(ケ号作戦)に参加する。第二次撤退作戦と第三次撤退作戦で、姉妹艦の舞風および磯風が損傷、修理のためしばらく戦線を離脱した。3月6日、浜風は第8駆逐隊の朝潮型駆逐艦満潮(前年11月13日第三次ソロモン海戦で損傷)を曳航し、舞風に護衛されながらトラック泊地を出発、サイパンを経由して日本本土へ向かった。約3か月間呉工廠で修理、整備、訓練を実施した。6月16日、第三戦隊(金剛、榛名)、第七戦隊(鈴谷、熊野)、第二航空戦隊(龍鳳)、第16駆逐隊雪風、第17駆逐隊各艦、秋月型新月等と横須賀を出港し、トラックへ進出した。6月22日、第十四戦隊(旗艦/那珂、五十鈴)、駆逐艦2隻(浜風、谷風)は第一次輸送部隊(横二特)としてナウルへ向かった。25日ナウル着後の浜風は第一次輸送部隊から分離され、26日着の第二次輸送部隊(長良、雪風)と合流しトラックへ戻った。以降、雪風と浜風は外南洋部隊に編入され、ふたたびソロモン方面の戦闘や輸送作戦に参加する。7月5日のクラ湾夜戦では輸送隊(望月、三日月、浜風)として参加した。本海戦で旗艦新月が沈没、秋山輝男三水戦司令官以下司令部は全滅した。7月12-13日のコロンバンガラ島沖海戦では、第二水雷戦隊司令官伊崎俊二少将(旗艦神通)指揮下の警戒隊(先頭より三日月、神通、雪風、浜風、清波、夕暮)として参加、米艦隊を撃退し輸送作戦も成功したが軽巡神通が沈没、伊崎司令官以下二水戦司令部は全滅した。7月17日、第七戦隊(司令官西村祥治少将:旗艦「熊野」)指揮下の夜戦部隊(主隊《熊野、鈴谷、鳥海》・水雷戦隊《川内、雪風、浜風、清波、夕暮》・輸送隊《三日月、水無月、松風》)としてコロンバンガラ島へ進出するが米艦隊は出現せず、夜間空襲により重巡熊野が損傷、駆逐艦夕暮と清波が沈没という被害を受けた。7月23日、雪風、三日月、浜風はコロンバンガラ島への輸送作戦に参加、アメリカ軍魚雷艇を撃退して揚陸をほぼ終えた。8月17日、第三水雷戦隊司令官伊集院松治少将(旗艦漣)指揮下の夜戦部隊(漣、時雨、浜風、磯風)と共に第一次ベララベラ海戦に参加した。この海戦での損害は軽微だったが、アメリカ軍駆逐艦4隻にも損害はなく輸送作戦も上手くいかなかった。8月22日より、駆逐艦4隻(時雨、浜風、磯風、漣)は第七聯合特別陸戦隊(サンタイサベル島のレカタ撤退及びブイン転進作戦「E作戦」)に従事するが、アメリカ軍機の妨害により一時中止。8月25日からの第2次作戦では、陽動部隊(川内、漣、松風)の支援を受け、駆逐艦3隻(浜風、磯風、時雨)で輸送作戦を再開、レカタ到着後陸戦隊の収容に成功する。帰路、アメリカ軍陸上爆撃機の断続的な空襲を受けて浜風は損傷、最大発揮速力18ノットとなった。ラバウルに帰着後、浜風は時雨、磯風と別れ日本本土へ回航された。9月21日に呉に帰港、10月20日まで呉工廠で修理する。11月3日、長浜を出港し、以降はトラック方面で護衛に従事した。12月21日、米潜水艦スケートの雷撃に撃沈された輸送船照川丸救援のため、軽巡洋艦能代、駆逐艦3隻(浜風、電、響)でトラックを出発し、満潮等と合流して照川丸生存者を救助した。1944年(昭和19年)2月1日にリンガ泊地に進出し訓練に参加、3月サイパン、タラカンへの船団護衛にあたった。3月31日、陽炎型7番艦初風と10番艦時津風が沈没、9番艦天津風は大破長期修理中のため、陽炎型8番艦雪風1隻のみとなっていた第16駆逐隊が解隊された。雪風は同日附で第17駆逐隊に編入され、不知火型5隻編制(磯風、浜風、谷風、浦風、雪風)となった。6月9日、駆逐艦4隻(磯風、谷風、島風、早霜)による対潜掃蕩作戦中、米潜水艦ハーダー("USS Harder, SS-257") の雷撃で谷風が沈没、第17駆逐隊初の喪失艦となった。6月中旬、マリアナ沖海戦に参加。6月14日、駆逐艦5隻(浜風、時雨、白露、響、秋霜)で燃料補給部隊を護衛中、白露型1番艦白露がタンカーの清洋丸と衝突して爆沈、浜風は白露の乗組員の救助を行った。19-20日、浜風、時雨は燃料補給部隊から分離し、小沢機動部隊乙部隊(第二航空戦隊:空母隼鷹・飛鷹・龍鳳、戦艦長門等)に所属してアメリカ軍機と交戦するが、20日、空母飛鷹がアメリカ軍機の攻撃で撃沈され、乗組員を救助した。戦闘終了後、燃料不足のため駆逐艦満潮、秋霜、早霜、時雨と共に艦隊主力から分離、先行して帰投した。7月リンガ泊地に再度進出、9月下旬、第17駆逐隊(浦風、雪風、浜風、磯風)は第二戦隊(司令官西村祥治少将)の扶桑型戦艦2隻(扶桑、山城)のリンガ泊地進出を護衛する。10月下旬、第17駆逐隊は栗田艦隊に所属しレイテ沖海戦に参加した。浜風は第三戦隊戦艦金剛を中心とした輪形陣の左側に配置され、10月24日のシブヤン海海戦を戦う。15時5分、至近弾と小型爆弾2発命中により第二缶室で火災発生。15時26分鎮火に成功したが、最大発揮速力28ノットとなり、戦死1名、重軽傷者16名を出す。同じく損傷した駆逐艦清霜と共に栗田長官から大破した戦艦武蔵を護衛するよう命ぜられる。武蔵の沈没を19時35分に目撃した。武蔵生存者の救助に従事した浜風は約800名を救助した。両艦(浜風、清霜)は合計1423名(重傷58名)を乗艦させ、マニラへ避退した。11月16日、第17駆逐隊は戦艦3隻(大和、長門、金剛)と軽巡矢矧を護衛してブルネイを出発、日本本土へ向かう。台湾で松型駆逐艦2隻(梅、桐)と分離、北上中の11月21日、戦艦金剛と第17駆逐隊司令艦浦風を米潜水艦シーライオン("USS Sealion,SS-315")の襲撃で失った。雪風は大和、長門を護衛して退避、浜風、磯風は金剛の生存者237名を救助したが約1300名が戦死、また浦風は轟沈したため17駆司令以下全乗組員が戦死した。浜風は浦風の沈没により、第17駆逐隊司令艦となった。その後長門を護衛して横須賀港へ入港。折り返して28日、大和型戦艦から空母に改造された大型空母信濃を護衛して横須賀を出航し、呉に向かうが29日、米潜水艦アーチャーフィッシュ("USS Archerfish, SS-311")の雷撃で信濃が沈没、浜風、雪風、磯風は信濃の生存者1400名を救助する。11月30日、呉に到着した。12月29日門司を出港、第17駆逐隊(雪風、浜風、磯風)及び時雨は、高雄経由シンガポール行きのヒ87船団および同行する空母龍鳳の護衛を行った。30日、雪風は機関故障により呉に戻り、浜風は第17駆逐隊司令艦となった。1945年(昭和20年)1月7日、龍鳳を無事に台湾の基隆市に送り届けた。翌8日、台湾の中港泊地で濃霧のなか1万トン級タンカーの海邦丸と衝突。双方の損傷は軽微だったが、船団は翌日以降の艦載機襲撃で壊滅した。この損傷により司令艦は磯風に変更となった。浜風は船団及び磯風と分離して馬公へ入港すると修理にあたり、1月25日呉に帰港した。1945年(昭和20年)3月26日に天一号作戦が発動されると、浜風は戦艦大和や第二水雷戦隊各艦と共に呉を出航し、宇部沖で待機した。4月6日、徳山沖に待機していた大和と合流し、15時16分に出航した。4月7日、大和および第二水雷戦隊(旗艦矢矧、第17駆逐隊《磯風、浜風、雪風》、第21駆逐隊《朝霜、霞、初霜》、第41駆逐隊《冬月、涼月》)は坊ノ岬沖海戦に参加した。第一次空襲の最中にあたる12時45分、浜風の船体後部に爆弾が命中し航行不能となり、その後魚雷が浜風の右舷船体中央部に命中し、浜風は前後に分断されて12時48分に沈没した。100名が戦死、艦長以下256名が救助された。()。浜風の轟沈は海戦に参加した多くの海戦参加将兵に目撃され、彼らの手記で取り上げられている。吉田満(戦艦大和乗組員)は、浜風先任将校の証言を以下のように記述している。6月10日、駆逐艦浜風(濱風)は第17駆逐隊、帝国駆逐艦籍、不知火型駆逐艦のそれぞれから除籍された。浜風、磯風沈没後の第17駆逐隊には、第21駆逐隊より初春型駆逐艦初霜が編入されたが、初霜は7月30日に舞鶴湾で触雷、沈没した。8月15日、玉音放送によりポツダム宣言の受諾(日本の降伏)が周知される。同日附で第17駆逐隊は解隊され、唯一健在だった姉妹艦の雪風は第41駆逐隊に編入された。

出典:wikipedia

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