松平 忠侯(まつだいら ただこれ)は、肥前島原藩の第3代藩主。島原藩深溝松平家9代。寛政11年(1799年)11月22日、第7代藩主・松平忠馮の四男として生まれる。庶兄がいたが、忠侯は正室所生だったために世子となり、文化11年(1814年)12月16日に従五位下・摂津守に叙位・任官する。文政2年(1819年)に父が死去したため家督を継ぎ、4月2日に主殿頭に遷任した。藩政では藩財政の再建を優先し、文政6年(1823年)には厳しい人別調査を行ない、その結果として文政8年(1825年)には菜種・小麦の税収増徴と生産品の運上銀制、生産方の設置と専売制の強化を行なっている。また、倹約令や奢侈禁止令を出した。しかし天災が相次ぎ、さらに長崎警備や軍事力強化に対する出費が相次いであまり効果は無かった。一方で廃校寸前だった藩校・稽古館の復興に努め、学生増加を奨励し、さらに医学校である済衆館を創設するなどして学問を奨励した。忠侯はもともと病弱だったが、天保11年(1840年)4月9日、42歳の厄払いの宴会の最中に病に倒れ、そのまま死去した。享年42。跡を次男・忠誠が継いだ。
出典:wikipedia
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