ポール・ジョン・クアントリル(Paul John Quantrill , 1968年11月3日 - )は、カナダ連邦オンタリオ州ロンドン出身の元プロ野球選手(投手)。息子のもプロ野球選手。のMLBドラフト6巡目で、ボストン・レッドソックスに入団した。7月20日に、メジャーデビューを果たした。以降、先発と中継ぎ両面で起用された。のシーズン途中にウェス・チェンバレン(後に千葉ロッテマリーンズでプレイ)、マイク・サリバンとの交換トレードでビリー・ハッチャー、と共にフィラデルフィア・フィリーズに移籍。に先発投手不足のチーム事情により先発ローテーション入り。チーム最多の11勝を挙げるが、球威とスタミナ不足が露呈して痛打される場面が多かった。1995年オフにリカルド・ジョーダン、ハワード・バトル(後に阪神タイガースでプレイ)との交換で先発陣強化を狙っていたトロント・ブルージェイズに移籍。に先発ローテーション入りで開幕を迎えたが、相変わらず痛打される場面が多く、シーズン後半には中継ぎに降格した。は開幕からブルペンを任されて好成績を残した。には故障で戦列を離れる事があったが、リーグ有数のセットアッパーに成長した。には11勝を挙げ、オールスターに選出。にはシーザー・イズトゥリスと共にロサンゼルス・ドジャースへ移籍した。ドジャースではセットアッパーを任されて好成績を残した。同年の86試合は、MLB最多であり、防御率は2年連続で下降した。は89試合に登板し、2年連続でMLB最多登板だった。防御率は更に低下して1.75であり、ナ・リーグのリリーフ投手では上から4番目の好数値であった。FAでニューヨーク・ヤンキースに移籍。4年連続80試合登板を果たしたが、レギュラーシーズンは不調に終わった。最初で最後となったプレーオフであるリーグチャンピオンシップシリーズ第4戦でデビッド・オルティーズにサヨナラ本塁打を打たれた。は開幕から不振が続いた。2005年シーズン途中にサンディエゴ・パドレスへ移籍した。パドレスでも不振が続き解雇された。2005年シーズン途中にフロリダ・マーリンズと契約した。同年限りで、退団した。3月同年から開催されたワールド・ベースボール・クラシック(WBC)のカナダ代表にも選出されたが、この大会をもって引退した。3月には第2回WBCのカナダ代表の投手コーチを務めた。9月11日に第3回WBC予選のカナダ代表が発表され、投手コーチを務めることとなった。1月17日に第3回WBC本戦のカナダ代表が発表され、投手コーチを務めることとなった。7月に2015年パンアメリカン競技大会の男子野球カナダ代表コーチを務めた。11月には第1回WBSCプレミア12のカナダ代表コーチを務めた140キロ台の高速シンカーを投げ、変化球はスライダーとスプリッターを投げる。制球力が良く、自己最多の89試合に登板した2003年の与四球率は1.7である。登板試合数が多い投手であり、4年連続80試合以上に投げた事がある。
出典:wikipedia
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