ダイオライト(")はイギリスの競走馬。競走馬として2000ギニーなどを制し、1935年に日本の宮内省下総御料牧場によって種牡馬として購買され輸出。日本初の三冠馬セントライトなどを送り出した。1941年 - 1943年、1946年リーディングサイアー。馬名は「閃緑岩」の意。2000ギニー馬ディオフォンの初年度産駒の一頭。産まれて間もない頃はかなり小柄だったためあまり期待されず、ニューマーケットのイヤーリングセールでは480ギニーの値しか付かなかった。しかし競走年齢に達する頃には立派な体格に成長し、2歳時にコヴェントリーステークス、モールコームステークスなどを制してイギリス2歳馬チャンピオンとなり、3歳になってクラシック初戦の2000ギニーを制した。これは父ディオフォンとの父子制覇ともなっている。エプソムダービー当日は「ダイオライト・デー」と呼ばれるほどの大本命となったが、3着に敗れている。24戦6勝の成績を残して4歳をもって競走馬を引退し、その後は同地で種牡馬となったが活躍馬に恵まれず、1935年に日本の宮内省が管理する下総御料牧場に導入された。種牡馬として精彩を欠いていたとはいえ、近代競馬発祥の地イギリスのクラシック競走優勝馬が日本に輸入されるのは当時異例のことであり、購買価格は8500ギニー、当時の日本円でおよそ18万円と極めて莫大なものになった。この輸入は当時の人々の耳目を集め、宮内省主導の輸入であったこともあり、ダイオライトの横浜税関到着時には政府高官を対象とした観覧に供された。その雄大な馬格はそこで概ね好評を博したが、御料牧場の関係者は後ろ脚が曲がっていることを危惧し、「本当に大丈夫なのか」という疑問の声も上がったという。日本における種牡馬生活を開始した初年度から1940年の中山四歳牝馬特別(現・桜花賞)優勝馬タイレイ、京都農林省賞典四歳呼馬(現・菊花賞)優勝馬テツザクラを送り出し、不安を杞憂に変えた。特にテツザクラの長距離戦における優勝は、ダイオライトの産駒傾向はスピードタイプになると目されていたために驚きをもって迎えられた。翌1941年にはセントライトが連戦連勝。2戦目で横浜農林省賞典四歳呼馬(現・皐月賞)に優勝し、東京優駿は現在まで史上最大着差タイの8馬身差で圧勝、引退レースとなった京都農林省賞典四歳呼馬も制し、日本初のクラシック三冠馬となった。セントライトの大活躍によりダイオライトの評価はますます高まり、翌年末より始まった太平洋戦争中にもクラシック優勝馬を含む多くの活躍馬を送り出した。セントライトが活躍した1941年から1943年まで3年連続のリーディングサイアーとなり、戦争激化による競馬休止から明けた1946年にもリーディングを獲得している。戦後も秋の天皇賞馬トヨウメなど活躍馬を送り出していたが、1951年夏、老衰により24歳で死亡した。代表産駒セントライトは種牡馬としてもまずまずの成績を残したが、父系を繋ぐまでには至らなかった。しかしダイオライトはブルードメアサイアーとしても優秀な成績を残し、ハクチカラ、ハクリヨウなど多くの名馬に影響を与えた。またダイオライトが日本に輸入された年にフランスで産まれた牝駒Nymphe Dicteは、母となって、プール・デッセ・デ・プーリッシュ(仏1000ギニー)の勝ち馬Dictawayを産んでいる。Dictawayもまた母になると、ガネー賞・ワシントンDCインターナショナルの勝ち馬ダイアトム(Diatome)を産んだ。そしてダイアトムは種牡馬として、春の天皇賞馬クシロキング、アイリッシュダービー馬Steel Pulseなどを輩出している。繋養されていた千葉県にある船橋競馬場では、その功績を記念した重賞競走ダイオライト記念が行われている。"太字は八大競走優勝馬"上記のうち、オーハヤブサ・ケゴン・チエリオ・マツカゼオーはオーマツカゼを母とする兄弟、クリヒデ・クリペロはケンタッキーを母とする兄弟である。
出典:wikipedia
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