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信濃国分寺

信濃国分寺(しなのこくぶんじ)は、長野県上田市国分(こくぶ)にある天台宗の寺院。本尊は薬師如来。現在山号・院号はないが、江戸時代には「浄瑠璃山真言院国分寺」と号した。また「八日堂(ようかどう)」の別称がある。奈良時代に聖武天皇の詔により日本各地に建立された国分寺のうち、信濃国国分寺の後継寺院にあたる。本項では現寺院とともに、創建当時の史跡である信濃国分寺跡・信濃国分尼寺跡(合わせて「信濃国分寺跡」として国の史跡)についても解説する。上田盆地の中、千曲川の北岸に位置する。上田市には信濃国の国府が設けられたと見られており、古代信濃国の中心地であった。創建時の国分僧寺跡・尼寺跡は並んで建てられており、現在はその中をしなの鉄道が通っている。そして僧寺跡の北方300メートルの場所に現在の国分寺が立っている。僧寺・尼寺が創建された時期は明らかとはなっていない。存続については、発掘調査によって両寺とも平安時代初期まで認められている。しかしながら、現国分寺位置への移転の年代は定かでない。寺伝では承平8年(938年)に平将門と平貞盛の合戦で焼亡したという。ただし『将門記』にも国分寺辺での合戦の記録があるが詳細は明らかではなく、発掘で明らかとなった焼けた痕跡も一部に留まっていることから、他国の国分寺同様に平安時代末期の律令制衰退により荒廃したと見られている。現寺院の境内にある石造多宝塔は鎌倉時代の作と見られることや、寺伝では三重塔の建立を建久8年(1197年)ということから、移転時期を平安時代と見る考えがある。なお、諸国国分寺の本尊の多くが釈迦如来であるのに対して当寺は薬師如来であることについて、平安時代中期に寺勢が傾いた際の復興において、当時の仏教思想の潮流に従ったものと推測されている。境内には本堂(薬師堂)、塔、鐘楼、観音堂、大黒天堂などが配置されている。本堂は文政12年(1829年)の発願で、天保11年(1840年)に起工、万延元年(1860年)に竣工した。その大事業の様子は、造営の年月に加えて「信濃国分寺勧進帳」や建物に記された寄進者名からうかがわれる。桁行6間、梁間4間、入母屋造、妻入りの身舎(もや)の周囲に裳階(もこし)をめぐらす(「間」は長さの単位ではなく柱間の数を表す用語で、本建物の場合は8尺(約2.4メートル)を1間とする)。善光寺本堂同様に庇(裳階)がつけられているので二階建てに見えるが、構造的には単層裳階付きである。近世の堂としては東信最大で江戸時代末期の特徴がよく表れており、長野県宝に指定されている。三重塔は高さ20.1メートル。源頼朝の発願と伝えるほか、塔内には建久8年(1197年)の墨書があったと伝わるが、様式から室町時代中期の建立と推定されている。初層内部は四天柱を立て、来迎壁を設け、大日如来坐像を安置する。建築様式は外観は和様で、内部は四天柱に囲まれた須弥壇上の天井を鏡天井とする点など一部に禅宗様の要素がある。昭和7年から8年に全面解体修理が施された。室町時代の様式をよく表すものとして国の重要文化財に指定されている。そのほか、三重塔の西側には鎌倉時代の作と見られる石造多宝塔(市指定文化財)がある。1月7日-8日には「八日堂縁日」が開かれる。行事では、ドロヤナギ(泥柳)材で作られた六角柱型の蘇民将来符が頒布される。歴史の古い行事で、「蘇民将来符頒布習俗」として国の無形民俗文化財に選択されているほか、頒布される蘇民将来符は市の有形民俗文化財に指定されている。国分寺(僧寺)跡は現国分寺の南方に位置する()。寺域は東西176.56メートル、南北178.05メートル(約100間四方)。金堂、講堂、中門、塔、回廊、僧房の跡が確認され、南大門の位置も推定されている。伽藍配置は中門、金堂、講堂を南北一直線に配置し、中門左右から出た回廊が講堂左右に取り付く東大寺式である。塔は回廊外の南東にあった。尼寺跡は僧寺跡の西側に位置する()。寺域は東西150メートル、南北150メートル(80間四方)。金堂、講堂、中門、回廊、経蔵、鐘楼、尼房などの跡が確認されている。伽藍は、中門、金堂、講堂、尼坊、北門を南北一直線に配置され、中門左右から出た回廊が講堂左右に取り付く。講堂の東西の回廊外に位置する建物跡は東が鐘楼、西が経蔵とみられる。現国分寺が所有する文化財、信濃国分寺資料館が所有する国分寺関連文化財の一覧。所在地関連施設交通アクセス周辺

出典:wikipedia

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