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武者小路実篤

武者小路 実篤(むしゃのこうじ さねあつ、1885年(明治18年)5月12日 - 1976年(昭和51年)4月9日)は、日本の小説家・詩人・劇作家・画家。貴族院勅選議員。姓の武者小路は本来「むしゃのこうじ」と読むが、のちに「むしゃこうじ」に読み方を変更した。しかし、一般には「むしゃのこうじ」で普及しており、本人も誤りだと糺すことはなかったという。仲間からは「武者」(ムシャ)の愛称で呼ばれた。文化勲章受賞。名誉都民。日本芸術院会員。贈従三位(没時叙位)。東京府東京市麹町区(現在の東京都千代田区)に、藤原北家の支流・閑院流の末裔で江戸時代以来の公卿の家系である武者小路家に武者小路実世子爵の第8子として生まれた。2歳の時に父が死去。子供時代は作文が苦手だった。学習院初等科、同中等学科、同高等学科を経て、1906年(明治39年)に東京帝国大学哲学科社会学専修に入学。1907年(明治40年)、学習院の時代から同級生だった志賀直哉や木下利玄らと「十四日会」を組織する。同年、東大を中退。1908年(明治41年)、回覧雑誌『望野』を創刊。1910年(明治43年)には志賀直哉、有島武郎、有島生馬らと文学雑誌『白樺』を創刊。彼らはこれに因んで白樺派と呼ばれた。実篤はトルストイに傾倒したが、その彼はまた白樺派の思想的な支柱だった。1916年(大正5年)には、柳宗悦や志賀直哉が移り住んでいた現在の千葉県我孫子市に移住した。理想的な調和社会、階級闘争の無い世界という理想郷の実現を目指して、1918年(大正7年)に宮崎県児湯郡木城村に「新しき村」を建設した。しかし同村はダム建設により大半が水没することになったため、1939年(昭和14年)には埼玉県入間郡毛呂山町に新たに「新しき村」を建設した。但し実篤は1924年(大正13年)に離村し、村に居住せずに会費のみを納める村外会員となったため、実際に村民だったのはわずか6年である。この両村は今日でも現存する。同村のウェブサイトでは、実篤が村外会員になって文筆活動に専念した事を好意的に受け止めている。実際に実篤が村民だったころの活動は離村後の彼の執筆に多大な影響を及ぼしたといわれており、また同村にとっても実篤が事実上その象徴的役割を果たしたことは否めず、両者は今日に至るまで言わば持ちつ持たれつの関係にあると見ることもできる。1936年、ヨーロッパ旅行中に体験した黄色人種としての屈辱によって、実篤は戦争支持者となってゆく。1941年の太平洋戦争開戦後、実篤はトルストイの思想に対する共感から発する個人主義や反戦思想をかなぐり捨て、日露戦争の時期とは態度を180度変えて戦争賛成の立場に転向し、戦争協力を行った。1946年(昭和21年)には貴族院議員に勅選されるが、4ヶ月後には太平洋戦争中の戦争協力が原因で公職追放された。1948年(昭和23年)には主幹として『心』を創刊し死去する直前まで関った。1951年(昭和26年)には文化勲章を受章している。晩年には盛んに野菜の絵に「仲良きことは美しき哉」「君は君  我は我なり  されど仲良き」などの文を添えた色紙を揮毫したことでも有名だった。1976年(昭和51年)4月9日、東京都狛江市にある慈恵医科大学付属病院で尿毒症により死去。満90歳だった。晩年の20年間居住した調布市の自宅敷地および建物が、没後に「実篤公園」「調布市武者小路実篤記念館」として公開されている。実篤は白樺派の思想代名詞的存在で、理想郷の建設に代表される理想主義的・空想社会主義的行動には現実離れしているという批判もつきまとった。また、気紛れで始めたことを簡単に投げ出すという無責任とも取れる言動を批判されることもあった。ただしその作品は必ずしも彼の思想的背景に依るものではなく、それゆえ現代に至るまで広く一般に読まれている。これが一般には『友情』『愛と死』などの代表作を生んだ、近代日本を代表する作家の一人としての知名度の方が遥かに高い所以である。全集は小学館より全18巻が出版されている。

出典:wikipedia

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