槇島城の戦い(まきしまじょうのたたかい)は、元亀4年(1573年)3月から7月にかけて行なわれた織田信長と室町幕府第15代将軍足利義昭の戦い。義昭が敗れて京都から追放され、室町幕府は実質的に滅亡した。この戦の後の7月28日、元亀から天正への改元が行なわれた。永禄11年(1568年)9月、織田信長に擁されて上洛し、室町幕府第15代将軍に就任した義昭は当初は信長と協調関係にあったが、将軍権力の抑制を図る信長の一連の動き(永禄12年(1569年)1月に信長が出した殿中御掟等)により次第に信長と対立するようになり、元亀3年(1572年)9月には信長から義昭に17条の意見書が突きつけられ、両者の対立は決定的になる。『信長公記』によれば、この時期には既に義昭が信長に対し反抗する意思を有していたことは明白になっていたとされている。義昭は浅井長政・朝倉義景・石山本願寺などを扇動して信長を攻撃し(信長包囲網)、元亀3年(1572年)10月、これに武田信玄が加わったが(西上作戦)、信玄の体調が悪化し、元亀4年(1573年)1月頃に武田軍の攻勢が停止している。一方、義昭は二条城の周囲に新たな堀を巡らし、弾薬を運び込むなどしていた。この頃、伏見城の三淵藤英が織田方についた異母弟細川藤孝の勝竜寺城を襲撃しようとしたとされる。また、淀城には足利義昭の重臣となった岩成友通が入っており、近江の今堅田・石山には山岡光浄院、磯谷久次、渡辺昌(宮内少輔)らを入れ砦を構築していた。信長は義昭に朝山日乗・島田秀満・村井貞勝らを使者として送り、娘を人質にすることを条件に和睦しようとしたが、義昭はこれを認めなかった。信長側は「もし和解せずば兵力を尽くして来たり、都を焼き、火と血に委ねん」として、今堅田・石山砦を攻撃することを決めた。当時、京にいてこの様子を目撃したルイス・フロイスは次のように記している。2月20日、信長は柴田勝家(長光寺)・明智光秀(坂本)・丹羽長秀(佐和山)・蜂屋頼隆(安土)ら四将を派遣、24日に勢田から琵琶湖を渡り、石山砦に攻撃をかけた。守備隊には山岡光浄院が率いる、伊賀衆・甲賀衆が在番していたが、砦がまだ完全に出来上がっておらず、26日に降伏して退却、四将はただちに砦を取り壊した。続いて29日に四将は今堅田を攻撃。午前8時ごろから明智光秀が東(琵琶湖上)から船で、丹羽・蜂屋は南東からそれぞれ攻めかかり、正午ごろに明智隊が突破口を開いて突入し、勝利した。光秀はそのまま坂本城に入り、他の三将は帰還した。この戦いで砦側は死者500人、負傷者1,000余人を出したとされる。ここでついに足利義昭自身が松永久秀や三好義継、三好三人衆らと結んで挙兵し、公然と信長と戦う姿勢を見せた。これを受けて、京には次のような落首が立てられた。「かぞいろと やしたひ立てし 甲斐もなく いたくも花を 雨のうつ音」(信長が義昭をまるで父母を扱うように養ってきた甲斐もなく、雨がはげしく花(=花の御所。将軍を暗示)を打つ音がすることだ)3月11日には、高山友照に斬られた高槻城主の和田惟長が三淵藤英の伏見城に逃げ込むという事件が起きている。3月25日、信長は足利義昭の兵を討つため岐阜を出陣した。しかし京では「武田信玄は3~4万人を率いて信長に近づいている」「朝倉義景は"もし信長が京にくれば2万人を率いてその背後を襲う"と公言している」「三好軍と石山本願寺勢の計15000人が京に向かっている」「赤井直正が義昭方として京に出陣する」などの風説があり、京の人々は信長が京に進軍して来ることが可能であるとは思っていなかった。3月27日、京に「信長はすでに近江に来ており、近いうちに京にやってくる」との報が伝わり、京の町は大混乱に陥った。義昭はすぐに奉公衆など5000人(うち鉄砲兵1000人)、宇津頼重、内藤如安率いる1700~3000人を二条城に引き入れた。3月29日の午前9~10時頃、信長は自ら10~12騎ほどの供を連れて先陣を切った上で、5,000~6,000騎を率いて京の市外4分の1里ほどの地点に現れた。正午頃、信長と明智光秀の調略を受けた荒木村重・細川藤孝が到着。両名は逢坂で信長を出迎えた。こうして信長の軍勢に約10000人(荒木勢4000~5000、細川勢、および後続の織田勢)が加わり、織田軍は合計15,000~16,000人ほどとなった。信長勢は東山・知恩院に布陣し、配下の諸隊は白川・粟田口・祇園・清水・六波羅・竹田などに布陣した。信長は到着後、内裏に黄金5枚を贈り「安心されたし」と伝言した。敵対はしたものの、義昭は名目上とはいえ征夷大将軍であるため、世評を考慮した信長は、光秀と藤孝を使者として義昭のもとに送り、自らの剃髪および人質を差し出すことを条件にして和睦を求めた。しかし義昭はこれを拒絶し、30日には信長方の京都所司代であった村井貞勝の屋敷を包囲して焼き払った。信長は和睦交渉を続けつつも、上京と下京への焼き討ちを命じた。驚愕した京の町衆は焼き討ち中止を懇願し、上京は銀1500枚、下京は銀800枚を信長に差し出した。信長は下京の市民を気遣い、銀を受け取らずに焼き討ちは中止したが、幕臣や幕府を支持する商人などが多く住居する上京は許さなかった。4月2日、信長は柴田勝家・佐久間信盛・蜂屋頼隆・中川重政・明智光秀・荒木村重・細川藤孝ら7人に7000~8000の軍勢を預け、市外に放火させた。翌4日には二条城を包囲し、上京に放火した。この時の光景についてフロイスは下記のように書いている。これを見た義昭側では「同所(上京)で聞いた恐怖なり不断の喚声に圧倒された彼らの驚愕は非常なもの」で、信長と和平交渉が開始されたという。信長はさらに二条城の周囲に4つの砦を築いた。4月7日、正親町天皇から和睦の勅命が出されると、信長と義昭はこれを受け入れて和睦した。信長はそのまま岐阜城には帰らずに近江・百済寺付近へと向かい、近辺の六角義賢が立てこもっていた鯰江城を攻撃した。信長は佐久間信盛・蒲生賢秀・丹羽長秀・柴田勝家に命じて六角氏を城に追い詰めると、周囲に砦を築いて包囲した。このとき「百済寺が鯰江城を支援している」という情報を聞いた信長は、4月11日に百済寺に放火して全焼させると、その日のうちに帰還して岐阜城に到着した。翌日の12日、武田信玄が信濃駒場で病死、信玄の死は伏せられていたが、武田軍は本国の甲斐に退却帰還していった。4月13日、義昭は二条城は安全でないと考え、自身は内藤貞勝の丹波の城(八木城)に移り、内藤如安を二条城に入れようと考えた。如安は「軽々しく動くことは怯懦」で義昭の評判を傷つけると意見し、一方で再び信長を敵とするべきではないと進言。義昭はこの意見を受け入れず真木島昭光の槇島城に移ろうとしたが、如安が説得して取りやめになった。5月22日、信長は「義昭が再び挙兵した際には瀬田のあたりで道を塞ぐ」と予想し、大軍を湖上輸送するため、佐和山で大船の建造を開始した。全長30間×幅7間(約54m×約12m)、艪が100挺、船首と船尾に櫓(やぐら)を備えた頑丈な船、という日本史上にも過去に例を見ないほどの巨船であった。信長が大工の岡部又右衛門を棟梁に任命し、自身も佐和山に滞在した。7月3日、義昭は勅命を破棄して再度挙兵し、二条城に三淵藤英(細川藤孝の異母兄)、伊勢貞興らの他日野輝資、高倉永相などの武家昵近衆を入れて守らせ、自らは槇島城に立て籠もった。対する信長は5日に大船が完成した機会を捉え、翌6日に大船で琵琶湖を渡って坂本城に入り、7日には京・妙覚寺に布陣して二条城を包囲。翌8日には信長の勢威を恐れて三淵藤英を除く武将や公家衆は皆退城してしまい、藤英のみが立て籠もっていた。しかし、10日藤英は柴田勝家の説得を受け入れ、二条城を開城した。7月16日、信長は続いて槙島城へ進軍し、五ケ庄の柳山に布陣。眼前を流れる宇治川の水量はかなりのものだったが、信長は「引き伸ばすようなら自分が先陣を切る」と言い、宇治川の戦いの先例にならって二手に分かれて河を渡ることと決めた。7月18日午前10時頃、織田軍は作戦通りに川を渡ると、しばし休息し、槙島城のある南向きに隊列を整えた。城から足軽が出てきたが、佐久間信盛・蜂屋頼隆らがこれを50ほど討ち取り、織田軍は城を包囲した。元より織田の大軍の前に守りきれるわけが無く、城は四方から壁を破られて放火され、義昭は嫡男の義尋を人質として差し出して降伏した。勝者である信長はしかし、敗者である義昭を殺害したり、将軍であるその地位を剥奪したりはしなかった。信長は「将軍殺し」の汚名を着ることを嫌った、などの説がある。信長は「怨みに恩で報いる」と言ったとされるが、20日、羽柴秀吉に命じ、義昭を妹婿である三好義継の居城・河内若江城に送り届けさせた。現在の歴史学では、この際に室町幕府は(実質的に)滅亡した、と解釈されることが多い(但し前述の通り、義昭自身はなおも征夷大将軍の地位にあり、従三位の位階すらも保ったままであった)。11月16日に若江城の戦いで義継が信長に討たれた後、義昭は僅かな近臣と共に堺、次いで紀伊へと流浪・亡命し、後に毛利輝元を頼って備後鞆(鞆幕府)にまで落ち延びることとなる。この後、信長は8月に淀城で三好三人衆の1人岩成友通を討ち取り(第二次淀古城の戦い)、越前に出陣して朝倉義景を討ち取り(一乗谷城の戦い)、直後に北近江へ向かい浅井長政も自害させた(小谷城の戦い)。武田信玄は死亡し武田軍は撤退、三好三人衆の残る2人三好長逸、三好政康は行方不明、松永久秀、本願寺の総帥たる顕如は信長と和睦し、ここに信長包囲網は瓦解した。
出典:wikipedia
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