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剣埼型潜水母艦

剣埼型潜水母艦(つるぎざきがたせんすいぼかん)は、日本海軍の潜水母艦。同型艦2隻。うち1隻は建造中より航空母艦に改造されて竣工、もう1隻もその後航空母艦に改造された。その後については瑞鳳型航空母艦を参照のこと。ワシントン軍縮条約とロンドン軍縮会議で日本海軍は空母の保有量を制限されていた。そこで10,000トン以下の条約制限外の補助艦艇で、有事には3ヶ月以内に空母に改造できる艦を企画した。これに沿って1933年(昭和8年)度予算(マル1計画の追加計画)で潜水母艦「大鯨」が建造され、翌1934年(昭和9年)度の計画(マル2計画)により建造されたのが本艦型である。ちなみに同時期に同様の趣旨で千歳型水上機母艦も建造されている。またこの当時は潜水母艦が不足していた。八八艦隊計画で建造された迅鯨型潜水母艦は海中型などの2等潜水艦に対しての補給を想定していて、より大きな1等潜水艦の出現により母艦能力は不足していた。また艦齢10年に達し今後は老朽化により練習艦への変更も考えられていた。他艦では「韓崎」は既に老朽化のため呉港に係留され練習艦になっており、「駒橋」は小型艦のため実際には測量艦として使用されていた。本艦型の一番の目的は上記の空母予備艦の確保と思われるが、潜水母艦としても新艦が要望されていた。当初は高速給油艦として計画された。設計は前艦型の「大鯨」と同型で変更は給油設備を追加した程度、主機も大鯨と同様にディーゼル4基を装備する予定だった。しかし友鶴事件が起きたため船体形状を変え吃水を深くするなどの変更がされた上で、第1艦の「剣埼」は1934年(昭和9年)12月起工、翌1935年(昭和10年)6月に進水した。しかしこの年の10月に第4艦隊事件が起き、これにより船体補強工事が必要となって工事日程が更に延びた。このころ日本は軍縮条約の破棄を既に決定しており、無条約時代になってから竣工することが確実となった。このため条約に縛られずに空母への艤装をなるべく先行させておくこととし、空母改造時に搭載する予定だったエレベーター2基、追加の主機4基(主機は合計で8基となる)などが搭載された。これにより補給用重油の搭載量が減少し、給油艦としての能力が低くなったので潜水母艦として完成することとなった。このような紆余曲折があり、「剣埼」は進水後3年以上掛けて1939年(昭和14年)に竣工した。当初は「大鯨」とほぼ同一設計であり、竣工後も外観は似た形となった。外観上の大きな相違点は「大鯨」では艦橋構造物とその後方の格納庫が一体となっていたが、「剣埼」の場合は当初予定が特務艦だったため艦橋構造物は独立し、羅針艦橋の後方が給油時に使用する防舷材の収容場所(潜水母艦として完成時には短艇置き場)となったことである。その他クレーンが強化されるなど細かい違いがある。竣工時にエレベーターが2基設置されていたのは上記したとおりであるが後部のエレベーターは使用されず、最上甲板は木甲板で覆われていた。またカタパルトが設置されておらず、機銃も搭載しなかった。これは早期の空母改造を予期していたものと思われる。「剣埼」は竣工後、第2艦隊2潜水戦隊に編入された。先の「大鯨」同様ディーゼル主機が不調で速力は20ノットほどが限界であったという。しかし潜水母艦としての能力は高く、潜水艦関係者の評価は高かった。空母の艤装が一部先行されていて設備が充実しており、また艦内に余裕があって居住性も良いので乗員からは「剣埼ホテル」と呼ばれていた。艦隊の評判が良かった「剣埼」であるが国際情勢は悪化の一歩を辿り、就役2年足らずで予定どおり空母改造に取りかかった。2番艦「高崎」は艤装中の昭和13年に給油艦から潜水母艦へ計画が変更され、その1年後にさらに空母へ計画変更され、潜水母艦としては完成しなかった。この建造中には長期の工事中断があり、船体は一時2艦とも横須賀港でそのまま放置されていた。この工事中断の理由は横須賀工廠の工事量が多かったためである。が、一旦潜水母艦として竣工するより建造途中で放置のままの方が空母改造が速く完了すると考えられた、とする推定もある。主に#海軍造船技術概要pp.858-859による。※ 空白は不明、←は左に同じ※※ 括弧内は#軍艦基本計画資料Sheet9,10による値※※※ 記載はないが変更無しと思われる。

出典:wikipedia

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