


ダスティ・ベイカー(Johnnie B. "Dusty" Baker, Jr. , 1949年6月15日 - )は、アメリカ合衆国・カリフォルニア州リバーサイド出身のMLBで活躍した元プロ野球選手、監督。主に外野手。右投右打。1993年から2002年までサンフランシスコ・ジャイアンツ、2003年から2006年まではシカゴ・カブスの、2008年から2013年までシンシナティ・レッズの監督を務めた。2016年からはワシントン・ナショナルズの監督を務める。のMLBドラフト26巡目(全体503位)でアトランタ・ブレーブスに入団。マイナーでのプレー後、には139試合に出場し、打率.321・17本塁打・76打点の好成績を収めてメジャーに定着する。にロサンゼルス・ドジャースに移籍。翌には30本塁打を放ち、一塁手のスティーブ・ガービー(33本塁打)、三塁手のロン・セイ(30本塁打)、外野手のレジー・スミス(32本塁打)と共に30本塁打カルテットの一員となり、ワールドシリーズ進出に貢献する。翌もワールドシリーズに進出するが、いずれもニューヨーク・ヤンキースに敗れている。サンフランシスコ・ジャイアンツに移籍。オークランド・アスレチックスに移籍。アスレチックス移籍後は一塁手、指名打者での出場も増える。引退。から5年間スプリットフィンガード・ファストボールの生みの親としても知られるロジャー・クレイグ監督の下で一塁コーチ・打撃コーチを歴任し、クレイグが退任したにジャイアンツの監督に就任。ウィル・クラーク、マット・ウィリアムズ、バリー・ボンズを擁する強力打線と2人の20勝投手、ジョン・バーケット、ビル・スウィフトに支えられ、106勝59敗の好成績を収める(ナショナルリーグ西地区2位)。、には地区優勝を果たすがリーグチャンピオンシップシリーズに勝つことは出来なかった。には、ワイルドカードからナショナルリーグを制するが、ワールドシリーズでは3勝4敗でアナハイム・エンゼルスに敗れた。第5戦ではバット・ボーイを務めていた3歳の息子ダレンが、本塁上で選手と交錯しそうになったが、機転をきかせたJ.T.スノー選手が拾い上げ難を逃れた。大変危険なプレーであったため、翌のシーズンから年齢制限を設け、14歳以下の子供がバットボーイとしてベンチ入りすることは禁止された。2003年にはシカゴ・カブスの監督に就任。1年目は地区優勝を果たすが、またしてもリーグチャンピオンシップシリーズに勝つことは出来なかった。年々成績が低下し、最下位になったついに解任される。10月13日、前任のジェリー・ナロン監督の解任に伴いシンシナティ・レッズの新監督に就任。球団史上初の黒人監督となった。指揮官としては、ジャイアンツ時代に三度の最優秀監督に選出され、2002年にはリーグ制覇した実績がある。選手から慕われるプレーヤーズ・マネージャーである反面、出塁率を軽視したり、先発投手に球数を投げさせ過ぎるなど、旧来の野球観に囚われている一面もある。「一番打者は出塁率よりスピード」と硬く信じるベイカーは、レッズの監督就任に際してカブス時代から目をかけていたコーリー・パターソン獲得を上層部に強く要請し、実際に入団してからは一番打者として起用していたが、期待を大きく裏切る惨憺たる成績で、完全に的外れな補強との酷評を受けた。また、若手を信頼せず、ベテランの起用を好む傾向にある。それ故レッズ就任時には、ホーマー・ベイリーとジョニー・クエト両投手やジョーイ・ボット一塁手、ジェイ・ブルース外野手ら新星がひしめくチームには不向きではないか、と疑問視する声も上がった。一発頼みの大味なスタイルから脱却したいとの狙いから細かく手堅い作戦を多用するが、結局空回りに終わることが多く、そのような戦法は本塁打の出易い本拠地球場にふさわしくない、そもそも指揮官としてチームの特徴を把握出来ていない、など批判も多かった。はレッズを15年ぶりの地区優勝に導く。オフに2年間の契約延長を行った。にも地区優勝を決めたが、その優勝決定試合には姿を見せることができなかった。これは直前に不整脈で入院していた為であった。11月3日、ジャイアンツ監督就任当初の主力選手であり、成績不振で解任されたマット・ウィリアムズの後任として、ワシントン・ナショナルズの新監督に就任することが発表された。就任1年目、最多勝、最多奪三振の2冠を獲得したマックス・シャーザーらの活躍で2年ぶりの地区優勝を果たす。しかし、西地区を制したドジャースとのディビジョンシリーズでは、2勝1敗と先にチャンピオンシップシリーズ進出に王手をかけながら連敗し、2勝3敗で敗退。リーグチャンピオンシップシリーズ進出を果たすことはできなかった。
出典:wikipedia
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