手広(てびろ)は、神奈川県鎌倉市の大字、1丁目から6丁目に区分される。旧鎌倉郡手広村、明治22年(1885年)に深沢村と合併し、深沢村の大字になる。その後、昭和23年(1948年)に深沢村が鎌倉市と合併したため以降は鎌倉市の大字となっている。手広は南部が丘陵、北部が平地となっている。昭和30年代ごろまでは北部は農地や林が多かったが、昭和60年代初頭には農地のほとんどが宅地化された。北部を同市笛田、東部を鎌倉山、南部を津村・西鎌倉と接し、西部を藤沢市川名と接する。付近を柏尾川と柏尾川支流の手広川が流れるが、治水対策が不十分だった近世期にはたびたび洪水や旱魃の被害を受けた。地名の由来については未詳だが、『鎌倉の地名由来辞典』では地形に由来するものではないかと論じている。住宅地の地価は、2015年(平成27年)1月1日の公示地価によれば、手広4-36-20の地点で16万2000円/mとなっている。小字八反目付近に縄文時代から平安時代にかけての住居跡(手広八反目遺跡、現神奈川県立深沢高等学校敷地内)が残るなど、古くから集落が存在した。もともとは津村郷に含まれていたが、中世期に津村から分村し独立したようである。「手広」という地名が文献上に初めて現れるのは天正19年(1591年)の「徳川家康寺領寄進状案」で、内容は「手広村のうち25石を青蓮寺に与える」というものであった。手広村は慶長18年(1613年)、前述の青蓮寺領を除く310石余が大岡忠吉に与えられ、以降は川越藩・彦根藩領となった幕末の一時期を除き版籍奉還まで大岡氏の所領下におかれた。なお手広村は近世期の地方文書が数多く残されており、これらの文書から近世期の手広村がどのような村落経営を行っていたかが研究されている。なおこれらの地方文書は『鎌倉近世史料 手広編』にまとめられている。隣接する笛田村とは農業用水の確保をめぐり江戸時代からたびたび訴訟を繰り返した。これらのうち明治7年(1874年)に始まった訴訟は特に大規模なものとなり、4度にわたる大審院判決を経て、明治27年(1894年)に「手広村と笛田村が共同でため池(夫婦池)をつくり共同管理する」という結論が出てようやく決着した。この訴訟の決着を記念した石碑が青蓮寺に残る。
出典:wikipedia
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