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赤井忠家

赤井 忠家(あかい ただいえ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。9歳の時に父・家清が戦の傷がもとで死去し、叔父赤井直正(荻野直正)の補佐を受ける。永禄13年(1570年)3月、木下秀吉の仲介で織田信長に所領安堵される。その後、離反し丹波国国人衆の旗頭波多野氏とともに織田氏に抵抗したが、織田家臣の明智光秀の丹波侵攻により、天正7年(1579年)8月9日、本拠の黒井城を落とされたため(黒井城の戦い)、忠家は遠江国二俣に逃れた。文禄元年、朝鮮出兵の時に豊臣秀吉に仕える。文禄2年(1593年)9月2日、播磨国美嚢郡に1,000石を給う。秀吉の弟の豊臣秀長と不和となり、大久保忠世を仲介に徳川家康に仕官を願ったが、信濃国蘆田の叔父の山口直之の元に在るよう命じられる。後に再び豊臣氏に仕官するが、また退いている。慶長5年(1600年)、石田三成の与力・矢田部助兵衛が、助兵衛の一族で忠家の家臣であった矢田部新左衛門宛てに密書を送ってきたのを家康に献上した。関ヶ原の戦いに東軍として参加。戦後、大和国十市郡に1,000石を賜り、戦前に与えられていた領地と合わせて2,000石となる。慶長10年(1605年)伏見にて死去した。

出典:wikipedia

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