ホセ・フロイラン・ゴンザレス(Jose Froilan Gonzalez, 1922年10月5日 - 2013年6月15日)は、アルゼンチンの元F1ドライバー。1954年のル・マン24時間レース覇者。F1においては、草創期における「名脇役」の1人とされ、太った体格と豪快な走りから、「大草原の猛牛」を意味する「パンパス・ブル」("The Pampas Bull" )の異名を取った。2008年の時点でF1最多優勝記録を持つフェラーリに、初勝利をもたらしたドライバーでもある。スポーツカー・レースにも出場しており、1954年のル・マン24時間レースにおいてモーリス・トランティニアンとのコンビでフェラーリ375を駆り、優勝した。元々は、アルゼンチン国内でレース活動を行っていた。1950年、開催初年度となるF1世界選手権において、第2戦モナコGP・第6戦フランスGPの2戦にプライベーターのマセラティから参戦。どちらもリタイヤだったが、初参加となったモナコGPでは予選で3位の成績を残している。1951年開幕戦のスイスグランプリにおいては、プライベーターのタルボから参戦。予選13位からリタイヤに終わった。1951年シーズン中盤、ピエロ・タルッフィ負傷に伴い、代役として第4戦フランスグランプリにフェラーリから出場。このレースで2位に入り、初の表彰台を獲得した。この走りに対し、フェラーリは続く第5戦イギリスグランプリでもゴンザレスを起用することとなった。与えられたマシンは前年型だったものの、ゴンザレスは迎えたイギリスグランプリの予選でポールポジションを獲得。決勝でも、ファン・マヌエル・ファンジオとの争いを制し、 ポールトゥーウィンで初優勝を飾った。この勝利は、フェラーリのF1初優勝としても記録されることとなる。その後、残る3戦もフェラーリから出走。2勝目はならなかったものの、3レース全てで表彰台に上がり、ランキング3位となった。1952年はチームの選択に翻弄され、最終戦イタリアグランプリのみの出走となった。マセラティから参戦したこのレースでは、予選5位からレース前半をリードし、初となるFLも記録。しかし、ピットインの間にアルベルト・アスカリに先行され、2位に終わっている。1953年はマセラティから本格参戦したが、No.1ドライバーであるファンジオの陰に隠れる形となり、第5戦フランスGPでは「燃料を半分だけ積んでハイスピードで飛ばし、フェラーリの撹乱を誘う」という役割も担わされている。出走した5戦中、3位3回・4位1回・FL2回の成績が残っていたが、3戦を残してチームから離脱した。ランキングは6位。1954年は、フェラーリに舞い戻り参戦。復帰初戦となる開幕戦アルゼンチングランプリでは、地元で予選2位からファステストラップを記録し、3位表彰台を獲得している。第5戦イギリスグランプリでは、予選2位から優勝。3年前に初勝利の舞台となったシルバーストン・サーキットにおいて、自身2勝目を挙げた。しかし第6戦ドイツグランプリにおいては、予選中に同胞のオノフレ・マリモンが事故死。決勝ではショックから集中力を切らし、 マイク・ホーソーンにマシンを譲りレースを終える一幕もあった(結果的には2位)。しかし、続く第7戦スイスグランプリではポールポジションを獲得(決勝は、ハンス・ヘルマンとのシェアドライブで2位)。この年は、最終的にランキング3位となった。1955年は、地元である開幕戦アルゼンチングランプリのみの出走となる。予選で自身3度目のポールポジションを獲得したが、酷暑の中で体力を消耗し交代。最終的には、トランティニアン、ジュゼッペ・ファリーナとの3者でのシェアドライブながら、2位となっている。1956年以降は本格的なF1参戦はなく、地元であるアルゼンチングランプリを中心とした、散発的な出走のみに留まることとなる。1956年は、開幕戦アルゼンチングランプリにマセラティ、第6戦イギリスグランプリにヴァンウォールから出走したが、どちらもリタイヤ。1957年は、フェラーリから開幕戦アルゼンチングランプリのみに出走し、5位の成績を残した。その後、1958年・1959年には1戦も出走しなかったが、1960年は開幕戦のアルゼンチングランプリのみフェラーリから参戦。しかし予選11位・決勝10位という成績に終わり、これがF1最後のレースとなった。引退後は静かな余生を送っているが、一時期病気を患った影響で、体格はスリムに変貌している。草創期におけるF1ドライバーの多くが鬼籍に入る中、80歳を超えなお健在であったが2013年6月15日永眠。90歳没。
出典:wikipedia
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