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濡須口の戦い

濡須口の戦い(じゅしゅこうのたたかい)は、中国後漢末期に、長江と淮河の間に位置している合肥一帯を巡って曹操と孫権の間で行われた戦い。濡須口は九江郡合肥にある巣湖の南岸に位置している。この巣湖は長江支流の一つから突き出たような位置に存在していて、湖と長江を繋ぐ支流は濡須水と呼ばれており、その濡須水の河口部を濡須口と呼んでいる。孫呉にとって濡須口は、曹操勢力との揚州方面での最前線に位置しており、国防の一大拠点であった。また、同じ巣湖の北岸には魏の重要拠点である合肥城があり、ここを攻略する上でも濡須口は重要な意味を持っていた。212年10月、前年に馬超以下関中の軍閥を破った曹操は自ら軍を率いて孫権征討を開始した。馬超を倒した以上曹操は西部にまわす兵力をある程度減らすことも出来、さらに関中以西の動員力をある程度掌握していたはずで、この時曹操は赤壁時以上の大軍を率いていた可能性もある。213年正月、曹操は軍を濡須口に進め、孫権も自ら軍を率いて防衛にあたったが、董襲の乗艦が夜間の突風で横転、転覆し、董襲は死亡した。この時董襲は部下に下船するように説得されたが、将軍としての責務を説き最後まで艦の復帰を図った。徐盛の蒙衝(突撃船)も強風によって流され、諸将と共に敵中に孤立してしまった。味方の誰もが、敵に取り囲まれたことを知り恐怖に震え上がったが、それに対して徐盛は自ら敵中に突撃した。絶望に捉われていた者たちも、これを見て敵に突撃をかけたため、敵は多くの損害を受け引き返した。このため、徐盛達は天候が回復した後に堂々と帰還することができた。曹操は夜中出撃し中州に上陸したが孫権軍の攻撃を受け退却した。孫権は曹操が出撃してこないのを見て船に乗り自ら強行偵察に出て、帰還して楽隊に盛大に音楽を鳴らさせた。その後も孫権は積極的に戦いを挑もうとしたが、孫瑜などはこれを諫めている。甘寧は孫権の命を受けて僅か百人の部隊で夜間に曹操の陣を襲撃した。曹操は孫権の長江西岸の陣を攻撃して打ち破り部将の公孫陽を捕らえるなどしたが決定打には欠いた。呂蒙の献策で予め構築しておいた土塁が功を奏して曹操は川を下って軍を進めることができず、一月余り対峙したあと撤退した。曹操は孫権の布陣に少しの乱れも無いことに感嘆し、「息子を持つなら孫権のような息子がいい」と周囲に語ったという。216年10月、曹操は自ら軍を率いて孫権征討に赴き、11月、譙に到着した。この攻撃は曹操軍の総力戦という規模であり、赤壁以降留守司令官となっていた夏侯惇以下、主だった武将の多くが参加し、合肥の張遼も攻撃に参加した。曹操は軍を率いて対峙する一方で、山越族に反乱を起こさせるなどの政治工作も行った。疫病が大流行し、曹操軍の司馬朗が病死した。217年正月、曹操は居巣に陣取り、張遼・臧覇を先鋒として孫権軍を攻撃した。孫権側は呂蒙を指揮官に任命し、呂蒙は保塁の上に強力な弩一万を配備させた。曹操軍の先鋒部隊が陣営を築き終える前に、曹操軍の先鋒部隊が撃ち破られた。3月、曹操はこの戦場と方面軍二十六軍を夏侯惇の総指揮とし曹仁・張遼らを居巣に残して、自身は許へと撤退した。孫権が使者を遣って曹操に降伏を申し出、曹操が受け入れ両者は軍を引いた。この両者の従属関係は夷陵の戦いで呉が蜀を大破させるまで続くこととなる。217年の濡須口の戦いにおいて孫権は曹操に降伏した。219年には曹操と同盟を結び共同で劉備を攻め、劉備軍の不意をつき荊州の諸郡を奪い、関羽を討ち取った。221年には曹操の子で魏の初代皇帝の曹丕は孫権を呉王にとりたてようとした。しかしながらこの臣従は一時的なものであり、曹丕から太子の孫登を人質に差出すように要求されても適当に言い訳をつけてこれを断わるなどしていた。222年6月に1年近くの戦いの末に呉は蜀の遠征軍を打ち破る(夷陵の戦い)。ところでこの時魏は呉への援軍を名目に軍の南下を開始させていた。このような状況の中で呉内部には白帝城の劉備を攻撃すべしという意見と慎重論が対立していた。陸遜は魏軍の南下が援軍などではなく呉攻撃の軍であることを見抜き蜀攻撃の軍の撤退を上申した。孫権はこの意見を採用した。孫権は軍を撤退させ蜀に和睦を申し入れた。222年9月、曹丕は孫権が孫登を人質に差出さないということを大義名分として呉に親征を開始した。曹丕は許昌から出撃し、他の諸将の軍も一斉に南下を開始した。11月には曹丕は宛城に入りこれを本営とし、曹休・張遼・臧覇の軍を洞口に、曹仁の軍を濡須口に、曹真・夏侯尚・張郃・徐晃らの軍を江陵にそれぞれ派遣した。これに対して呉は呂範等の軍を洞口に派遣し、濡須口では守将の朱桓が防衛にあたった。江陵では朱然が城に篭り防衛にあたり、孫盛の軍が朱然の救援に派遣された。222年11月、曹休と対峙していた呂範の水軍は突風とそれを機と読んだ曹休の攻撃により壊滅的な損害を受けた。その後、臧覇が快速船500艘と1万人の兵を率いて、呉軍を襲撃し大勝したが、呉の全琮・徐盛は臧覇を追撃して破り、尹魯を討ち取った。呉軍の将校の晋宗が叛乱を起こし魏に寝返ったが、223年6月に呉の賀斉と糜芳が晋宗を襲撃し生け捕りにした。この戦線では曹真・夏侯尚が朱然が守る江陵を攻撃包囲する一方で、張郃が別働隊を指揮し孫盛の救援軍を攻撃した。張郃は孫盛の軍を打ち破り、孫盛の陣地があった長江の中州を占拠し、朱然は孤立無援となった。江陵城では内応騒ぎや疫病騒ぎが起きたものの朱然は力戦奮闘し防衛にあたり、江陵城はなかなか落城しなかった。夏侯尚は中州に陣地を設け、浮橋を作った。孫盛に代わり、諸葛瑾と潘璋が朱然の救援に派遣された。気候が温暖となって川の流量が増えてきた時期に潘璋は長江の上流の水上に砦を築いた。諸葛瑾軍はこれを拠点として二方面から夏侯尚軍が使用している浮橋を攻撃した。軍師として曹丕の側についていた董昭は、諸葛瑾が二方面から攻撃をかけているのに対して夏侯尚の浮橋は一本しかないこと、時期的に長江の水かさが急激に上昇する可能性があることを指摘し、夏侯尚軍を撤退させることを提案した。曹丕は勅命を下して夏侯尚を撤退させた。夏侯尚軍は諸葛瑾の攻撃を受ける中なかなか上手く撤退できなかったが最終的には中州から撤退した。諸葛瑾は中州を占拠したが、夏侯尚は火攻めで諸葛瑾を撃破した。曹仁と朱桓の対峙は長期間に及び、223年に入り、曹仁は兵を分散させさらに下流の濡須口と洞口の中間地点にあたる羨渓を攻撃すると喧伝した。これは朱桓の兵力を分散させ実際には全兵力で濡須口を攻撃しようという作戦であった。朱桓はこの計略に嵌り自らは濡須口に残り兵を分けて一隊を羨渓に派遣した。曹仁は船で中洲に兵を上陸させ朱桓攻撃を開始した。この時、朱桓が手元に置いていた兵力は五千程で数万規模の大軍の曹仁軍に対して圧倒的に不利な状況であったが、朱桓は「戦というものは兵力ではなく指揮官の質によって勝敗が決まるものだ。俺と曹丕では俺の方が遥かに優れているし、まして曹丕の部将の曹仁など問題にならない。それに曹仁の軍は遠征で疲弊しているし、地の利を得ているのはこちらの方だ。」などと言って兵を叱咤激励すると、旗指物や陣太鼓の鳴り物を潜めさせ城の防御が実際よりもさらに弱くなっていると見せかけ曹仁の軍を誘い込んだ。223年3月、曹仁は自らは後方で総指揮を執り、息子の曹泰に濡須城を攻撃させ、将軍の常雕に諸葛虔・王双らを指揮させて複数路から船に乗り朱桓軍の家族らがいる中州を攻撃させた。朱桓は駱統・厳圭らの諸軍に命じて常雕軍の軍船を拿捕させ、さらにそれとは別に常雕に直接攻撃をかけさせた。朱桓自身は軍を率いて曹泰と対峙し、火攻めを以ってこれを退却させた。常雕は戦死し、王双は呉軍の捕虜となり、曹仁は撤退した。曹仁軍の戦死者は千人を超えた。223年3月、疫病が流行したこともあり魏軍は総退却した。この戦いにより呉と魏の友好関係は切れた。また孫権は戦中に鄭泉を使者として蜀に派遣し、蜀との同盟関係を回復させ、呉と蜀が手を結び魏に対抗するという三国時代の基本的な構図が成立することとなった。

出典:wikipedia

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