『バリー・リンドン』("Barry Lyndon")は、スタンリー・キューブリック監督が、18世紀のヨーロッパを舞台に撮り上げた1975年のイギリスの映画である。原作はウィリアム・メイクピース・サッカレーによる同名の小説(1844年)。アカデミー賞の撮影賞、歌曲賞、美術賞、衣裳デザイン賞を受賞した。18世紀半ば、レドモンド・バリーはアイルランドの農家に生まれた。彼の父親は馬の売買上のトラブルに端を発した決闘で殺害され、未亡人となった彼の母親ベルは若い頃の美貌を覚えていた多くの男たちに求婚されたが拒否し続け、女手一つでバリーを育て上げた。10代になったバリーは従姉のノラに初恋をしていた。ノラも思わせぶりな態度を取るなどバリーを誘惑し、2人は恋人同士となる。しかしその後、ノラはイギリス軍のジョン・クイン大尉とも恋仲となる。クイン大尉は非常に裕福な家の当主で、ノラと彼女の家族は貧困から抜け出すためにクイン大尉との結婚を望むようになった。ある日、クイン大尉に嫉妬したバリーは彼に決闘を申し込んだ。決闘は1対1でお互い同時に銃を撃つ方式で行われ、バリーの弾が命中してクイン大尉はその場に倒れてしまった。決闘の立会人となったノラの兄弟やイギリス軍のグローガン大尉はクイン大尉の死亡を告げ、バリーは警察の追及から逃れるために村を出た。ところが、実際にはバリーの銃にはノラの兄弟によって麻弾が装填されていたため、クイン大尉は気絶しただけだった。ノラとクイン大尉の結婚を望む兄弟たちが、バリーを村から追い出すために仕組んだものだった。バリーは村を出る際に母ベルから旅費として20ギニーのお金を渡されたが、ダブリンへ向かう道で追いはぎにあい一文なしになった。今更家へ帰る訳にもいかず、バリーは途中立ち寄った村でイギリス軍の兵員補充に志願して大陸に渡り、七年戦争に参加する。軍隊の中で頭角をあらわしたバリーはやがてグローガン大尉と再会し、彼の部下となった。しかし戦列歩兵として直後に参加したミンデンの戦いでグローガン大尉は戦死し、大いに悲しんだバリーは軍隊を辞めることを考えるようになった。その後、軍隊による略奪などを目の当たりにしたバリーは脱走を決意。将校の服・身分証・馬を奪って同盟国のプロイセンに渡った。イギリス軍の将校になりすましたバリーはプロイセンから中立国オランダへ抜けてアイルランドへ帰ろうと考えていた道中、遭遇したプロイセン軍のポツドルフ大尉に職務質問を受ける。バリーはニセの身分証を提示してブレーメンへの使者の任務を遂行中であると言い繕ったが、ブレーメンは正反対の方向だったためにポツドルフ大尉は疑念を抱いた。ブレーメンへの道案内を買って出て同行することになったポツドルフ大尉はやがてバリーとの雑談の中で矛盾を発見し、バリーにプロイセン軍の兵卒になるか逮捕されるかの選択を迫った。バリーは逮捕を恐れてポツドルフ大尉の下で兵卒になることを選択した。プロイセン軍の軍律はイギリス軍よりも甘く、将校による私刑などが横行しており、バリーは厳しい兵卒生活を送る。2年後、バリーは戦地でポツドルフ大尉を救出した功績により、今度は身分を隠してプロイセン警察でスパイとして働くことになった。バリーの任務の対象となったのが、スパイ嫌疑をかけられていたギャンブラーのシュバリエ・ド・バリバリであった。シュバリエの召使いとして潜入しようとしたバリーだが、シュバリエが同郷人だとあらかじめ知らされていたバリーは2年間も帰国がかなわず異国で無理矢理使役されている心細さからプロイセン警察を裏切り、シュバリエの相棒として二重スパイをこなすようになる。やがてシュバリエが国外追放になるとバリーはシュバリエの策でプロイセンからの脱出に成功し、彼と共にヨーロッパ各国の社交界でイカサマによって荒稼ぎする。そんな中、バリーは病弱なチャールズ・リンドン卿の若い妻レディー・リンドン(ファーストネーム:ホノリア、爵位:リンドン「女」伯爵、兼イングランドのバリンドン「女」子爵、兼アイルランド王国のキャスル・リンドン「女」男爵。リンドン卿の従妹)に出会い、彼女を籠絡する。バリーの企み通りチャールズ・リンドン卿はまもなく病死し、バリーはレディー・リンドンと結婚してバリー・リンドンを名乗るようになる。1年後、バリーとレディー・リンドンの間に子供が生まれる。バリーは、ブライアンと名付けられたその子供を溺愛するが、家庭をまったく顧みない放蕩な生活に、レディー・リンドンと前夫リンドン卿との子であるバリンドン子爵との間に亀裂が入りはじめていた。そんなある時、バリーは共に暮らすようになっていた母ベルから、もしレディー・リンドンが先に死んでしまったら財産は全てバリンドンのものとなり、爵位を持たないバリーは路頭に迷うことになると忠告される。それを聞いて危機感を覚えたバリーは爵位を授かるために有力貴族らを招待して盛大なパーティーを開いたり、高価な絵画をさらに法外な価格で気前よく買い取るなど、各方面に惜しみなく財産を投じ始めた。バリーの際限の無い浪費にリンドン家の財産はたちまち食いつぶされ、レディー・リンドンは増え続ける借用書へのサインを続ける日々を送る羽目になる。そんな母とリンドン家の将来を憂いたバリンドンはバリーを憎み、亀裂は修復しがたいものとなっていった。やがてバリンドンの挑発に乗ったバリーが公衆の面前でバリンドンを殴りつけるという事件が起こってバリーの社交界での評判は地に落ち、爵位を授かる望みも断たれてしまう。追い打ちをかけるようにブライアンが馬の事故で亡くなり、絶望したバリーは酒におぼれ、レディー・リンドンは精神を病んで服毒自殺まで図るが、幸い少量だったので未遂に終わる。バリーとレディー・リンドンが廃人となってしまったため、リンドン家の家計はバリーの母ベルが取り仕切るようになった。ベルは苦しい家計をやりくりするために、長くレディー・リンドンに仕え、亡くなったブライアンの家庭教師などもしていたラント牧師に解雇を言い渡した。ラント牧師は抵抗するもベルは聞く耳を持たず、憤慨したラント牧師は城を出ていたバリンドンを頼ってリンドン家の惨状を訴えた。話を聞いたバリンドンは自らリンドン家を建て直す決心をし、バリーに決闘を申し込む。決闘は1対1で交互に銃を撃ち合う方式で行われ、バリーは左足を切断する大怪我を負って城から離れた町で療養生活を送るようになる。すぐにベルも看病のためにバリーの元を訪れ、空になった城をバリンドンが掌握。バリンドンは毎年500ギニーの年金と引き替えにイギリスを去って二度と戻らないことをバリーに求めた。この条件に承諾しなければ逮捕されるのは確実で、バリーはやむなく同意してベルと共にイギリスを去って行った。その後彼は落ちぶれた賭博師として生きたとも言われているが、どのような末路を辿ったかは定かではない。注:「女」伯爵:countess,「女」子爵:viscountess,「女」男爵:baronessキューブリック唯一の「伝記的」な様式を持つ作品である。キューブリックは当初、ナポレオン・ボナパルトの映画化を目論んでいたが主に予算の都合で断念し、代わって製作されたのが本作である。時代考証はもちろんだが、ライティング、美術、衣装に至るまで、完璧主義者であるキューブリックは見事に18世紀を再現してみせている。またこの時代の雰囲気を忠実に再現するため、ロウソクの光だけで撮影することを目指し、NASAのために開発されたレンズを探し出して使用した。軍隊はすべてアイルランド陸軍の歩兵を利用した。映画化の叶わなかったナポレオン時代の戦争に関する研究が広く活かされる事になったが、撮影当時は北アイルランド紛争の激しい時で、スタッフ・キャストの移動にも細心の注意をはらったという。アカデミー賞を受賞するなど評価は高かったものの興行的には苦戦し、制作費回収には年月を要した。著名な原作とスターを起用した娯楽作品による興行的な成功を目指したキューブリックが次の作品として選んだのが、スティーヴン・キングの『シャイニング』である。映画撮影の歴史で最も明るいとされるカール・ツァイス製「プラナー50mmF0.7」を手に入れたまでは良かったが、このレンズはアポロ計画の飛行士が持たされたハッセルブラッド・カメラ(月を離れる際にカメラとレンズは放棄しフィルムだけを持ち帰る)のために作られたもので、マウントのみならずシャッター、絞り、バックフォーカスなど構造のあらゆる点で映画用とは相容れないものだった。キューブリックが前作『時計じかけのオレンジ』で使用したアーノルド&リヒター製アリフレックス35IICにも取付ける事は出来ず、キューブリックはレンズマウントの口径が一番近かったミッチェルBNCカメラをワーナー・ブラザースのカメラ部からジョン・キャリー(当時ワーナーの社長だった)を通じて調達した。このカメラについてキューブリックは、アリフレックスより長尺のフィルムを装填出来、撮影時間を延ばす事が出来る事も利点に挙げている。レンズの改造はシネマ・プロダクツ社長のエドマンド・M・ディジュリオに依頼された。改造が必要な箇所はレンズマウントの加工にとどまらず、フォーカス機構もそのままでは使えずカメラ本体の絞りも改造が必要だった。また焦点距離50mmでは画角が狭いため、焦点距離を36.5mmにするkollmorgen製のワイドコンバーターが使われた。これは70mm映画の映写用に造られたものである。レンズ絞りを開放にするとピントが外れ易くなるが、ミッチェルBNCはレフレックス(レンズに入った映像がファインダーから見られる)ではなかったため、被写体までの距離を正確に追うため被写体を真横からテレビカメラで写し、フォーカス・プラー(ピントを合わせるオペレーター)が映像をモニターで監視しながらフォーカス操作を行った。さらに視差を最小限にとどめるため、テクニカラー・カメラのファインダーを流用。このような改造とテストに3ヶ月が費やされた。当時のフィルムもASA100程度の低感度で、特別に明るいレンズを駆使してなお増感現像を行いASA200相当で使われた。1980年代に入ると高感度フィルムが開発され、蝋燭照明の下でもより良い画質で簡便に撮影出来るようになった、とオルコットは後年語っている。低照度撮影用にHDカメラを選択可能など、今日さらに選択肢は広がっている。レンズ貸出しにまつわる逸話も幾つか伝えられており、『アマデウス』の撮影監督ミロスラフ・オンドリチェクからの要請は断られたが、キューブリックと同じ弁護士と契約していた伊丹十三は「貸してもよいですよ」という返事を受けたという。など民謡とオリジナル音楽以外の音楽は、ほとんどがこの作品の設定と同時代である18世紀に作曲されたバロック音楽、古典派音楽のものだが、唯一の例外が19世紀に作曲されたシューベルトの作品である。これは単なる時代錯誤ではなく、キューブリック自身がバロック音楽にロマンティックな音楽があまりないと感じたためだといわれる。また、劇中にてプロイセン兵士が盃を交わしながら「ホーエンフリートベルク行進曲」を合唱するシーンがあるが、当該の歌詞(Auf, Ansbach-Dragoner! Auf, Ansbach-Bayreuth!)が追加で作成されたのは1845年であり、こちらは時代考証が間違っている(意図的なものかミスであるかは不明)。
出典:wikipedia
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