出羽清原氏(でわきよはらし)は、平安時代の豪族である。出羽国(後の羽後国)の在庁官人、清原令望が俘囚長に任ぜられ、仙北三郡を支配したとする説があるが定説はない。朝廷に服属した蝦夷を俘囚といい、清原氏はこの俘囚の主(『陸奥話記』)と史料に見える。自身も俘囚の一族ではないかとも考えられているが、系図では中央貴族である清原氏の深養父系とされている。しかし深養父の子から出羽清原氏に繋がる部分の信憑性に疑問があることから、元慶の乱で都から来た清原令望を祖とする在庁官人ではないかともいわれている。『陸奥話記』等でも安倍氏と違い「真人」の姓が明記されており、鎮守府将軍に補任されることが出来たことからも単なる俘囚ではないとする見解が多いが、実際の家系についてはまだ不明な点が多い。1990年代以降、武則系を海道平氏(岩城氏)の一族とする説が唱えられると、これを強化する論考が続き、有力な説とする論考も現れている。陸奥(後の陸中国)の俘囚豪族安倍氏と河内源氏源頼義の戦いである前九年の役にて当主清原光頼は当初は中立を保つも、参戦依頼に応え、光頼の弟、清原武則が率いる大軍をもって安倍氏を滅ぼした。その結果、武則が朝廷から従五位下鎮守府将軍に補任され、安倍氏の旧領奥六郡を併せ領する大族となる。武則の跡を子武貞が継ぎ、さらにその子真衡が継いだ。真衡は延久蝦夷合戦で活躍し鎮守府将軍となった貞衡と同一人物とする説がある。真衡は、棟梁の権限を強め、平氏の岩城氏から養子を取って後継者(成衡)とし、さらにその妻に源頼義の娘を迎えた。真衡はこうして武家としての清原氏を確立させようとしたが、その過程で一族の長老吉彦秀武や異父異母弟清衡(藤原経清の遺児。母親が清原氏に嫁したため養子となる)、異母弟家衡(武貞と清衡母のあいだの子)と対立し、その鎮圧戦の最中に急死した。源義家の調停により遺領は2人の弟が分け合うこととなったが、この条件を不服として家衡が清衡を攻撃、出羽国沼ノ柵では清衡側としてこの紛争に介入した源義家軍を破った。家衡の叔父にあたる武衡は家衡の戦勝を聞きつけてこれに与力し、出羽国金沢柵の戦いでは籠城戦を戦ったものの清衡を応援した義家軍により滅ぼされた。この一連の内紛を後三年の役といい、勝利した清衡は奥州の覇権を握り、摂関家に届け出て実父藤原経清の姓藤原を名乗るに至り、清原氏惣領家は滅亡した。『吾妻鏡』には、奥州合戦の後、源頼朝の呼び出しに応じた清原姓の古老の存在が記されているが、出羽清原氏との関係は不明である。
出典:wikipedia
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