単端式気動車(たんたんしききどうしゃ)とは、気動車の一種で、運転台方向への運転を原則とする片運転台車である。そのため逆転機を搭載しない車両が多い。「軌道自動車」、「自動機客車」、あるいは「自働(動)客車」などと呼称された初期のガソリンカーは多くがこの形態である。なお、「単端式」という名称は日本車輌製造の造語とも英語の「Single ended」の訳語ともいわれる。T型フォードの大量生産の成功により自動車の一般普及が本格化した1910年代以降、機関を含む自動車の動力伝達機構を鉄道車両に応用する動きが欧米で急速に進んだ。1920年代には日本にもこの動きが伝播し、自動車用などの小型内燃機関を搭載した小型気動車が、「町工場」規模の小メーカーによって製造されるようになった初期の内燃動車はいわば「線路を走る自動車」を念頭に開発されたこともあり、T型フォードやフォードソン・トラクターといった輸入自動車・トラクターのエンジン・駆動系を流用し、鉄道用の車体に取り付けた、文字通り「軌道自動車」と呼ぶべき物が多かった。当時日本においては自動車工業は未発達であり、エンジンや駆動系の変速・逆転機構など主要部品を自社で開発・供給できる専業メーカーも、日本国内には存在しなかった。もとより、零細車両メーカー自体にも、走行機器類を全て内製するだけの技術的な蓄積がなかった。このような事情から、日本における黎明期の原始的な気動車群は、一般に専用の逆転機を持たず、機関からクラッチ・変速機を経て車軸へ動力を伝達する、自動車に準じた構成とされた。走行特性が前進時と後進時で異なるため、運転台も一方の車端部にのみ設置し、同じ一端寄りに機関を装架した。水冷エンジンの冷却系もそのまま流用されたため、車体前面にラジエータが設置された。このように、一方向への走行に特化し「単一の車端に運転台と機関を備える」気動車が「単端式気動車」である。この種の気動車は逆転機を必要としないため動力伝達機構を単純化出来る一方、運用に当たって終端駅での方向転換が必要であり、折り返し各駅についてデルタ線やループ線、あるいは転車台といった転向設備が設置されていた。そのため、単端式気動車で新規開業する鉄軌道会社向けにメーカー各社は車両と共に転車台も販売した。もっとも、導入各社は蒸気動力で開業し、機関車を方向転換させる施設を備えていた事業者が大半であったため、この構造も当然の仕様として受け入れられていた。欧米においては、単端式気動車を背中合わせに連結して方向転換を避ける運転方法も用いられた。1920年代中期以降、旅客輸送量の少ない地方鉄軌道において、製造コストが廉価で燃費も安い車両として導入が進んだ。当時は乗り合いバスが鉄道の競合相手として台頭しつつあり、瀬戸内地方ではこの種の気動車の導入で先陣を切った井笠鉄道の成功に影響されて、車掌省略運転や高頻度運転による経費削減とサービス向上を目的に導入された例が多い。車両の製造は、自動鉄道工業所(→日本鉄道事業)の「自動機客車」が先鞭を付けた後、より大型の丸山車輌製「自働(動)客車」が普及した。続いて大手車両メーカーの一角を形成する日本車輌製造が台頭する。日本車輌製造は1927年製造の井笠鉄道ジ1形を皮切りに21人から30人乗りの小型単端式気動車を量産、大手ならではの完成度の高い洗練された設計で先行メーカーを圧倒する車輛数を製造した。その他にも梅鉢鉄工場がまとまった両数を製造している。松井車輌、雨宮製作所、汽車製造、加藤車輛製作所の各社も製造実績がある。また単端式は比較的容易に製造可能なことから、鉄道会社が自ら既存客車を気動車へ改造する際などに採用される例も見られた。中でも角田軌道、朝倉軌道などでは当局に対して改造認可申請を出さないまま気動車化を実施し、特に後者は当局からの照会へもまともに回答しないまま最大10両もの客車改造単端式気動車を揃えた。この朝倉軌道の10両という数字は、非公認ながら日本の私鉄における単端式気動車保有数の最多記録と見られている。この種の気動車の特徴的な点として、日本車輌製造製の例に見られるように非力な機関出力を有効活用するために、耐久性よりも軽量化を優先した車体構造のものが多かったことがあげられる。このような構造は、車輛寿命の面でマイナスにはなったが、鋼製車と木製車の車輛寿命の違い程顕著には現れていない。単端式気動車は、1920年代後期に日本で隆盛を極めた。そのため製造両数もこの時期のものが多いが、1930年代以降に逆転機をそなえた両運転台式気動車が普及した時期でも軽便鉄軌道向けに需要があった。戦前期の製造は南筑軌道の自社製車両2両をもって終了した。メーカー製の車両では1935年3月に竣工した十勝鉄道キハ1(浅野物産納入・斎藤工業所製造)と同年2月竣工の安濃鉄道カ10(日本車輌製造本店製)が最終である。なお、1938年以降は燃料統制により気動車の製造自体が事実上禁止されている。この種の小型気動車は、購入した鉄道会社が小規模な零細企業であることが多く、戦前の段階でバスの普及などにより、路線そのものが廃線に追い込まれたケースが過半を占めた。また、戦中・戦後の混乱期にはエンジンを下ろして客車化される例が多くなり、その数は減少した。このため、第二次世界大戦後まで動力車として残存した例は、以下の各社に限られる。戦後に単端式気動車を新規保有した地方私鉄には、上記の根室拓殖鉄道、西大寺鉄道の他、大水害の被害で窮地に追い込まれた山鹿温泉鉄道がある。山鹿温泉鉄道の車輛は大阪市交通局払い下げのGMCウェポンキャリア(軍用トラック)流用バス2両を1955年に改造して製作したものである。一方、1950年代中盤から1960年代にかけて、北海道開発局が道内に存在した簡易軌道向けに道内メーカーに製造させた「自走客車」では、担当者のメカニズムに対する不理解などから、単端式で製造されたものが計3両存在した。これは1941年に鶴居村営軌道雪裡・幌呂線用として就役した、ボンネットバスを改造した単端式気動車2両や1949年に道内で製造された根室拓殖鉄道の2両の気動車が担当者の念頭にあったためとされる。しかし取扱いが不便であるためか、以後16両が製造された自走客車はいずれも逆転機付きの両運転台車となり、後期には液体変速機の導入も行われている。結果的に1958年製の歌登村営軌道向け2軸自走客車が日本で製造された最後の旅客用単端式気動車となった。営業用以外の事例では、従業員輸送用として豊羽鉱山専用鉄道と常磐炭砿(現・常磐興産)が戦後新規に単端式気動車を保有している。どちらも改造車であった。営業用の単端式気動車は日本においては1960年代末までには姿を消したが、2008年現在JR北海道が試験運転中のデュアル・モード・ビークル(DMV)を、鉄道車両として見るならば、単端式気動車の一種ということになる。また、保線用のモーターカーの中には単端式気動車のような運行形態をとるものもある。これらの方向転換には場所を選べないため、搭載したジャッキを支点に車体を転回させる方法が一般的である。
出典:wikipedia
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