第12代総選挙(だい12だいそうせんきょ)は、第五共和国時代における大韓民国国会を構成する国会議員を選出するため1985年2月12日に実施された選挙である。なお、韓国では選挙の回数について「第○回」ではなく「第○代」と数える。また、名称も「総選挙」()ではなく、「総選」()と二文字で表記するのが一般的である。国会議員の任期(4年)満了に伴って行われた選挙である。全斗煥政権が実施した国民和合措置によって、政治活動を解禁された政治家を主体として結成された新韓民主党(略称:新民党)が、結成からわずか一ヶ月足らずで実施された本選挙で「官製野党」と揶揄されていた民主韓国党(民韓党)を抜いて第一野党に躍進し、与党に対する政治不信と民主化を熱望する国民の強い願いを反映した選挙となった。民正党は、地域区で第1党の議席を得た政党に全国区の議席3分の2を配分する制度によって安定過半数を確保し、第1党の座を守った。しかし新民党は、ソウルの14選挙区、釜山の6選挙区、光州・仁川・大田の5選挙区で全員当選を果たしただけでなく、ソウル・釜山などで候補の殆どが一位で当選した。また新民党は大都市部の票をさらって(ソウルでは新民党の得票率が40.7%に対し、民正党は27%)、得票率で与党・民正党を抑えて躍進を果たした(ソウル・釜山・大邱・仁川・光州を除く地方では民主正義党が優勢)。「選挙革命」と新民党自身が呼んだこの選挙で、学生運動圏の支持など若い層の政治的関心の高まりと支援に力を得たことが新民党が躍進した大きな理由である。また、既存政治圏や野党、そして正当性を欠く全斗煥政権が行なった強圧的な政治手法と不道徳性に対する国民の不満が一気に爆発したことが新民党躍進のもう一つの理由といえる。ちなみにソウル城北区では民青学連事件で死刑判決を受けたこともある元ソウル大学学生の李哲が新民党公認でトップ当選している。新民党が躍進したこの総選挙で、政治環境に変化が現れ始め、民正党内の穏健派が力を持つようになった。また新民党は大統領の直接選挙制を復活させるための「改憲署名運動」など対与党の強硬な闘争を行なうようになり、6・29民主化宣言へと繋がって行き、第五共和国の終焉を早める作用として機能した。一方で「やらせ野党」、「さくら野党」と揶揄されていた民韓党は、選挙後直後から所属議員の新民党への集団脱党が相次いだことで最終的に3議席という群小政党に転落し、解体への道を歩むことになった。新民党は民韓党など他党からの入党者で、5月までに所属議員数が102人となり、総議席数の三分の一を上回り、国会召集権を単独で確保するまでになった。
出典:wikipedia
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