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オトラントの戦い

オトラントの戦いは、1480年から1481年にかけて南イタリア、アプリア地方の都市オトラントをめぐって戦われた、オスマン帝国とナポリ王国を始めとするヨーロッパ諸国との間の戦闘である。1480年7月28日、70~200隻のオスマン艦隊がイタリア半島南端部オトラント前面に布陣した。おそらくこれらの軍はロドス島から移動してきたと思われる。翌日には守備隊と住民は市街地を放棄し、市の城塞に退却したが防備はお粗末なもので大砲すら一門もなかった。オスマン帝国軍は8月11日に砲撃の支援を受けながら総攻撃を敢行、オトラントは落城した。陥落後の市内では徹底した略奪が行なわれ、生き残った男性市民は奴隷としてアルバニアへ送られた。オトラント大主教ステファノ・アグリコリら主だった聖職者たちは大聖堂で殺され、ステフェン・ペンディネッリ司教と守備隊長フランチェスコ・ラルゴ伯に至っては生きたままのこぎりで両断された。8月12日にはイスラームへの改宗を拒んだ市民800人がミネルヴァの丘(今日では殉教の丘と呼ばれる)で斬首され、大聖堂は馬小屋のひとつとして使われた。オスマン軍の攻勢は続き、同月さらに70隻の艦隊がヴィエステを攻撃し、9月12日にはヨーロッパでも豊富な蔵書を有する図書館があるthe Monastero di San Nicholas di Casoleが破壊された。10月にはレッチェ、タラント、ブリンディジが攻撃を受けた。しかしここで軍勢の物資はつき、近づく冬もあって、遠征軍の指揮官ゲディク・アフメト・パシャは歩兵800と騎兵500をオトラントに残し、軍隊のほとんどを引き連れてアルバニアへ撤収した。バルカン半島で冬を越した後、戻ってくる算段であると思われた。コンスタンティノープルの陥落から未だ30年も経っていない時期である。イタリアの政治指導者たちはローマが同じ運命を被ることを真剣に考慮し、ローマ教皇とローマ市民を町から避難させる計画が練られた。ローマ教皇シクストゥス4世は1471年の十字軍召集を再び呼びかけ、いくつかのイタリアの都市国家とハンガリーとフランスがこれに積極的に応じた。だが、1479年にオスマン帝国と講和にこぎつけたばかりのヴェネツィア共和国は呼びかけを無視した。翌年にナポリ王フェルディナンド1世によって彼の息子であるアルフォンソが率いる軍が起こされた。これにハンガリー王マーチャーシュの応援も加わり、オトラント奪還の見込みがついた。町は1481年5月1日から包囲されたが、5月3日にオスマン帝国のスルタン、メフメト2世が死去した。次代の指導者が決まるまでの権力の空白により、オスマン帝国がオトラントに増援を送ることが困難になったと考えられる。オスマン側からは何ら応援の動きはないまま、8月23日、9月10日の2度の総攻撃でオスマン軍の守備隊は壊滅し、オトラントは再びキリスト教側に戻った。市民の数は20,000人から8,000人に減少した。再度の攻撃への恐怖から、8,000人のうちの多くが町を去った。今日、800人の殉教者の遺骨の何体かはオトラント大聖堂とナポリの教会に納骨されている。また、2013年にはローマ教皇フランシスコによって800人全員が列聖された。

出典:wikipedia

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