バド・ブラック(Harry Ralston "Bud" Black , 1957年6月30日 - )はアメリカ合衆国・カリフォルニア州サンマテオ郡サンマテオ出身のプロ野球監督、元プロ野球選手(投手)。左投左打。選手としては1985年にロイヤルズのワールドシリーズ優勝に、投手コーチとしては2002年にアナハイム・エンゼルスのワールドシリーズ優勝に貢献した。過去40年間で現役時代に100勝以上あげた投手出身の監督は、ボブ・レモン(通算207勝)、ラリー・ダーカー(通算139勝)に次ぐ3人目である。少年達が野球をプレー中に怪我をしないための、正しい投球法を教える活動にも参加している。南カリフォルニアで育ったブラックはワシントン州のローワー・コロンビア州立短期大学在学中の1977年1月、1次ドラフトでサンフランシスコ・ジャイアンツから3巡目(全体61位)指名されるが契約はせず、さらに6月の2次ドラフトでニューヨーク・メッツから2巡目(全体44位)で指名された時にも契約はしなかった。故郷カリフォルニアのサンディエゴ州立大学編入後ののMLBドラフトでシアトル・マリナーズから17巡目(全体417位)で指名され入団、プロとしてのキャリアをスタートさせる。この年は傘下のA-級ビリンガム・マリナーズ、A級サンノゼ・ミッションズで19試合に登板、先発は2試合と中継ぎでの起用が主であった。はA級サンノゼで32試合に登板、この年も先発は5試合であった。はAA級リン・セイラーズで22試合に登板、先発・中継ぎ・クローザーと様々な起用をされた。9月5日にセプテンバー・コールアップでメジャーに初昇格するが、敗戦処理で2試合に登板しただけであった。3月2日、前年10月に行ったトレードの後日交換選手としてカンザスシティ・ロイヤルズに移籍する。開幕はメジャーで迎えたが、敗戦処理で1イニング投げた後に傘下のAAA級オマハ・ロイヤルズへ降格。しかしそこで4試合に先発し、防御率2.48・3完投・1完封の好成績で4月18日に昇格。先発・中継ぎで22試合に登板した。は開幕当初はAAA級オマハであったが、5月25日に昇格後は先発ローテーションを守り初の2ケタ勝利をあげる。は自己最多となる17勝をあげ、エースとして活躍、チームのア・リーグ西地区優勝に貢献した。先発陣の中では防御率、勝ち星、投球回、奪三振でチーム1位であった。は15敗と負けが先行してしまったが、チームはア・リーグ西地区連続優勝。リーグチャンピオンシップシリーズでは3試合に登板し、防御率1.69とトロント・ブルージェイズを完璧におさえ、チームは4勝3敗でリーグ優勝を果たす。セントルイス・カージナルスとのワールドシリーズでは2試合に登板し、防御率5.06と結果は残せなかったが、チームは4勝3敗で勝利しの球団創設以来初のワールドシリーズ制覇となった。は開幕から先発で打ち込まれたことと、ダン・クイゼンベリーの不調などもあり、中継ぎ・抑えでの登板が主となった。は先発・中継ぎ、は中継ぎで投げていた。1988年6月3日にパット・タブラーとのトレードで、クリーブランド・インディアンスに移籍する。インディアンス移籍後も先発・中継ぎで投げていたが、防御率は5点台と低調な成績に終わった。は1985年以来、久々に1年間を先発で過ごし二桁勝利をあげ、イニングもチーム最多と活躍した。はシーズン終盤の9月16日にトロント・ブルージェイズに3選手との交換でトレードされる。チームはボストン・レッドソックスを猛追していたが、2ゲーム差で優勝をのがした。1990年のシーズン終了後はフリーエージェントとなっていたが、11月9日にサンフランシスコ・ジャイアンツと4年総額1,000万ドルで契約した。だがこの契約には34歳という高齢や、それまでの通算成績が9年間で83勝82敗と平凡なものであること、ずっとローテーションを守れてもいなかったことで高額すぎるとの批判も多かった。批判を払拭するかのように、は二桁勝利をあげ面目は保ったが、その後はからにかけての怪我に悩まされ、登板機会は激減した。ジャイアンツとの4年契約が切れた後はFAとなっていたが、4月25日にインディアンスと契約する。ここでも調子は戻らず7月14日に解雇され引退した。、とはインディアンスのGM特別補佐として働き、はインディアンス傘下のAAA級バッファローでピッチングコーチをしていた。11月24日にアナハイム・エンゼルスの投手コーチに就任。からメジャーでのコーチキャリアがスタートした。ジョン・ラッキー、アービン・サンタナ、ジェレッド・ウィーバー、ブレンダン・ドネリー、スコット・シールズ、フランシスコ・ロドリゲスらを育て上げ、までの7年間で5回リーグ5位以内に入り、にはワールドシリーズ制覇を成し遂げた投手陣を育成した手腕は、大いに評価された。2006年オフにはオークランド・アスレチックス、ジャイアンツ、サンディエゴ・パドレスの監督候補として名が挙がっていたが、11月8日にパドレスの6人の候補者の中から選ばれ監督に就任することが発表された。サンディエゴ州立大時代のチームメイト、殿堂入りの名選手でありパドレスの英雄でもあるトニー・グウィンも、この決定に歓迎するコメントを寄せた。監督1年目として迎えたのシーズンは最後まで混戦であったが、最終的には首位のアリゾナ・ダイヤモンドバックスと1.5ゲーム差のナ・リーグ西地区3位でシーズンを終えた。しかしチーム打率がリーグ16チーム中15位の.251という貧打の中、チーム防御率は1位の3.70、前年防御率4点台と不振であったジェイク・ピービーを復調させサイ・ヤング賞を受賞させるなど、1年目としては合格点を与えられる結果を残した。シーズンには一部では最下位に終わると予想していたが、投手陣と守備陣が大健闘し、久々の地区優勝もあると思われていたが終盤に失速し、ジャイアンツに追い抜かれ2位に終わるも、最後まで守り抜く野球が評価され、この年の最優秀監督賞を受賞した。6月15日、成績不振を理由にパドレスの監督を解任された。2015年10月28日、2016年シーズンよりワシントン・ナショナルズの監督に就任する事が発表されたが、契約面で合意に至らず、新監督にはダスティ・ベイカーが就任した。現役時代は多彩な変化球で打者を翻弄する投球スタイルであった。
出典:wikipedia
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