TOHOシネマズ渋谷(とうほうシネマズしぶや、TOHO CINEMAS SHIBUYA)は、TOHOシネマズ株式会社が経営・運営するシネマコンプレックス。東京都渋谷区道玄坂の『渋東シネタワー』(ビル名称)内にある。チケット売り場は1階にあり、上映されている作品のチケットはすべてここで購入できる。2011年7月15日、渋東シネタワーを改装し、「vit」および「シネマイレージ」を導入の上リニューアルオープン。同年11月30日、下層階(地下1階、地上1階・2階・3階)を改築し、6スクリーンに増設してリニューアルオープンした。本項では、同館の前身となった映画館『渋谷東宝会館』及び『渋東シネタワー』についても詳述する。1936年(昭和11年)11月1日、東京横浜電鉄(現在の東京急行電鉄)が建設し、東横映画劇場として開場。しかしながら、開場間際に東宝の小林一三と東横の五島慶太との間に交渉が成立し、同館は開場と同時に東宝へ譲渡され、東宝直営館としてスタートした。3階建の鉄筋コンクリート造で、座席数は1,401席。オープン当日のプログラムは、ユニバーサル・ピクチャーズ製作・配給のアメリカ映画『ショウボート』(監督ジェームズ・ホエール)と、成瀬巳喜男監督のP.C.L.作品『朝の並木路』が上映された。同館が建つ4年前の1932年(昭和7年)の時点では、当時の東京府豊多摩郡渋谷町における映画館は、道玄坂方面には道玄坂キネマしかなく、それ以外には1925年(大正14年)に広尾不二館から改称した広尾キネマ、恵比寿駅前にあったヱビス帝国館や、氷川館、澁谷館、澁谷キネマ、澁谷劇場、聚楽座といった映画館も存在していた。1942年(昭和17年)には第二次世界大戦における戦時統制が敷かれ、日本におけるすべての映画が同年2月6日に設立された社団法人映画配給社の配給になり、すべての映画館が紅系・白系の2系統に組み入れられるが、同年発行の『映画年鑑 昭和十七年版』によれば、東横映画劇場は同じ東宝系列の日比谷映画劇場や、松竹系列の邦楽座(後の丸の内ピカデリー)等と共に「白系」に属していた。1943年(昭和18年)12月、株式会社東京宝塚劇場は東宝映画と合併し、東宝株式会社となる。1944年(昭和19年)9月1日、東横映画劇場は渋谷東宝映画劇場に改称。戦後は渋谷スカラ座や、地階の渋谷文化劇場(1952年11月17日開館)を擁した『渋谷東宝会館』として数々のヒット作や大作を上映した。なお、渋谷文化劇場だけは東宝子会社の渋谷文化劇場が経営していた。1989年(平成元年)2月26日、渋谷東宝会館は施設の老朽化や渋谷駅前の再開発に伴う建て替えを理由に閉館。最終番組は東宝(閉館時の座席数1,026席)が『ダイ・ハード』(監督ジョン・マクティアナン)、スカラ座(同494席)が『ロジャー・ラビット』(監督ロバート・ゼメキス)、渋谷文化(同204席)が『ゼイリブ』(監督ジョン・カーペンター)だった。建て替えまでの間、渋谷方面における東宝洋画系上映は東急文化会館内にあった渋谷東急2と、東京テアトル系列のシネセゾン渋谷、ヒューマックス系列の渋谷ジョイシネマ(現:渋谷HUMAXシネマ)が請け負っていた。1991年(平成3年)7月6日、渋谷東宝会館は『渋東シネタワー』と改称し、4スクリーンに増設して再オープンした。「渋東」の名称は、かつてこの地にあった「渋谷東宝」に由来する。2006年(平成18年)9月30日までは、シネタワー1・2・4は東宝が、シネタワー3は2007年2月28日まで渋谷文化劇場が所有していたが、2007年(平成19年)3月1日よりTOHOシネマズに合併統合された。※ただし、シネタワー時代末期(2009年以降)はヒット予想の高い作品により、客入りなどで上映館を4館内で入れ変えることも多かった。2011年(平成23年)、開館から20周年を迎えた渋東シネタワーは大幅なリニューアル工事を実施。まず同年2月より上層階にあったシネタワー1と2を閉鎖・改装し、同年7月15日、TOHOシネマズ渋谷スクリーン1・2・3・4がオープン。次いで下層階のシネタワー3・4を改装し、同年11月30日にTOHOシネマズ渋谷スクリーン5・6がオープン。同時に全スクリーンの上映方式も長らく続いた35mmフィルム上映からデジタル上映へと移行した。これにより映画館としての渋東シネタワーは消滅することになったが、建物自体は引き続き渋東シネタワーの名称が使用されている。TOHOシネマズになってからは、東宝系の邦画・洋画のみならず、丸の内ピカデリー1・2・3で上映される洋画も一部上映するようになった。全スクリーンともデジタル3D上映に対応している。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。