LINEスタンプ制作代行サービス・LINEスタンプの作り方!

お電話でのお問い合わせ:03-6869-8600

stampfactory大百科事典

サド侯爵夫人

『サド侯爵夫人』(サドこうしゃくふじん)は、三島由紀夫の戯曲。全3幕から成る。三島の最も成功した戯曲というだけでなく、「戦後演劇史上最高傑作の戯曲」と評価されている作品である。無垢と怪物性、残酷と優しさの多面の顔を持つ夫・サド侯爵の出獄を20年間待ち続けた貞淑な妻・ルネ夫人の愛の思念を描き、悪徳の刻印を押されたサド侯爵の人物像を、6人の女の対立的な会話劇により浮かび上がらせながら、ルネ夫人の最後の不可解な決意の謎を探っている。1965年(昭和40年)、文芸雑誌『文藝』11月号に掲載され(舞台図の挿絵:秋山正)、同年11月15日に河出書房新社より単行本刊行された。初演は前日の11月14日に劇団NLT+紀伊國屋ホール提携公演として、紀伊國屋ホールで上演され、昭和40年度芸術祭賞演劇部門賞を受賞した。翻訳版はドナルド・キーン、マンディアルグ(英題・仏題:Madame de Sade)をはじめ数か国の言語に訳され、国内外で上演され続け、特にフランスで人気が高い。登場人物が女性6人だけなので、男性4人のみの『わが友ヒットラー』と対をなす作品となっている。三島由紀夫が『サド侯爵夫人』創作するきっかけとなったのは、友人でもある作家・澁澤龍彦著『サド侯爵の生涯』を読んだことであった。三島は、老年になった侯爵と夫人との離別に最も触発されたとして、以下のように述べている。舞台は、パリのモントルイユ夫人邸のサロン。サド侯爵夫人・ルネの母の家である。登場人物は、モントルイユ夫人、ルネ、シミアーヌ男爵夫人、サン・フォン伯爵夫人、ルネの妹・アンヌ、家政婦・シャルロットの女性6人のみで、話題の中心人物であるサド侯爵(アルフォンス)は登場しない。第1幕は1772年の秋。第2幕は6年後の1778年9月。第3幕はさらに12年後の1790年4月。なお、モントルイユ夫人、ルネ、アンヌ、サド以外の人物は作者創作の架空の人物である。サド侯爵夫人・ルネは「貞淑」。厳格な母親モントルイユ夫人は「法・社会・道徳」。敬虔なクリスチャンのシミアーヌ男爵夫人は「神」。性的に奔放なサン・フォン伯爵夫人は「肉欲」。ルネの妹・アンヌは「無邪気、無節操」。家政婦・シャルロットは「民衆」を代表するものとして描かれ、これらが惑星の運行のように交錯しつつ廻転し、すべてはサド侯爵夫人をめぐる一つの精密な数学的体系となる。第1幕 - 1772年秋。パリのモントルイユ夫人邸のサロン。第2幕 - 6年後の1778年9月。パリのモントルイユ夫人邸のサロン。第3幕 - さらに12年後の1790年4月。フランス革命勃発後9ヶ月。パリのモントルイユ夫人邸のサロン。『サド侯爵夫人』は発表当時、概ね肯定的な評価で迎えられた。当時の文壇の評価としては、江藤淳が、小説よりも「説得力があり、暢達」な文体を評価している。山本健吉は、「三島氏の戯曲として、きわめて結晶度の高いもの」と賛辞し、「欠点を言えば、サドの著書(『ジュスティーヌ』)を夫人の回心のきっかけとしていることだと思う。事実としてでなく、解釈としてでなく、戯曲のプロットとして言うのである。劇のクライマックスに〈書巻の気〉は避けたい」と述べつつ、「三島氏の目をくらますような修辞が、巧みにいぶされてあって、しかも対話の妙を尽くしているのがよい」と評している。その後『サド侯爵夫人』は、1994年(平成6年)末に発表された演劇評論家が選ぶ戦後戯曲ベスト20のアンケートで第1位作品となり、「戦後史上最高傑作の戯曲」という評価がなされた。主人公・サド侯爵夫人・ルネを演じた丹阿弥谷津子(俳優・金子信雄夫人)は、演劇人生で「もっとも想い出深い作品」と回想している。同アンケートの「劇作家」部門では、井上ひさしと三島由紀夫が1位に選ばれたが、井上ひさしも三島戯曲を高評価し、中でも『サド侯爵夫人』は傑作だと述べ、「観客が7人目の登場人物としての『サド侯爵観』をつくっていく。非常に明晰な台詞、明晰な構造、明晰な心理分析で組み合わせたがっちりした芝居です」と評している。また、『サド侯爵夫人』は日本国外でも上演されており、「007シリーズ」の主人公ボンドの上司「M」役で知られるイギリスの女優・ジュディ・デンチも主役を演じた。特にフランスでも人気があり、各地でしばしば上演されている。1977年(昭和52年)にパリのオルセー小劇場で行なわれた公開討議会で、聴衆から「日本人の作品とは思えない」という声があがった。芳賀徹は、パリでウェイトレスが「ミシマ見た? 『サド侯爵夫人』すてきだったわよ」と言うのを耳にし、あのウェイトレスは「ミシマが日本の作家だということさえ知らなかったのかもしれない」と記している。伊藤勝彦は、もっとも感動した『サド侯爵夫人』の舞台として、スウェーデンのイングマール・ベルイマンによって監督・演出された東京グローブ座の舞台だと評している。フランスで、マドレーヌ・ルノー劇団の舞台その他いろいろの『サド侯爵夫人』を観たという中村雄二郎も、イングマール・ベルイマンの舞台の方がはるかにすばらしかったと言っていたという。なぜ夫人が最後に夫・サドとの面会を拒んだのかという「謎」について柴田勝二は、「ルネが〈貞節〉を尽くす相手としての夫サドは、あくまでも手の届かない距離の中に置かれた存在であり、たやすく手に触れうる身近な相手になった時、サドはすでに彼女の〈貞節〉の対象ではなくなっている」とし、サドの風貌が〈醜く肥えて〉、凡庸な老人になってしまい、「超越性を失った」ためだと考察し、その帰結には、『午後の曳航』の「龍二の処刑」や、『絹と明察』の後半における「駒沢への叛乱」と同様の意味合いが見られ、そこは、「日本という〈家〉の〈家長〉でありえなくなった戦後の天皇への否認」という主題が込められているとし、サドの醜く肥満した帰還の姿には、龍二よりも「色濃い形」で、「戦後憲法下における天皇と、それが象徴する戦後日本の照応」が映し出されていると解説している。また、ルネが哀れなヒロイン『ジュスティーヌ』に自分をなぞって、その世界を〈私たちが住んでゐる世界は、サド侯爵の創つた世界〉と断定するところは、三島がその後に述べるようになる〈富裕な、抜目ない、或る経済大国〉と照応し、〈悪の結晶〉は、物質的繁栄のみに励んできた「戦後日本」を指していると柴田は考察し、太宰治の『斜陽』のかず子が恋する上原の変貌した姿と同様、そこには「〈神〉としての光輝を失った戦後の天皇」が「みすぼらしい肉体のイメージ」によって表現されている共通性があるとし、太宰が〈天皇は倫理の儀表として之を支持せよ。恋ひしたふ対象なければ、倫理は宙に迷ふおそれあり〉と述べていたことに触れながら、かず子は上原の子供を孕むのに比して、三島の『サド侯爵夫人』のルネの結末の方は「サド侯爵」=「戦後天皇」に対して「はるかに厳しい」と解説している。

出典:wikipedia

LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。