正定県(せいてい-けん)は中華人民共和国河北省石家荘市に位置する県。滹沱河(こだか)の北岸にある。臨済宗発祥の地である臨済寺などが有名な古都で、国家歴史文化名城の一つに指定されている。前475年、鮮虞国が晋国滅亡させられ晋国の版図に組み込まれたが、戦国初期の前475年、鮮虞人により中山国が建国され、東垣邑が設置された。前296年、中山国は趙国に滅ぼされ、その版図とされた。秦朝による中国統一が達成されると東垣邑は東垣県と改編され、治所が現在の石家荘市古城村附近に設置され、鉅鹿郡の管轄とされた。漢初は東垣県とされていたが、前196年に真定県と改称され恒山郡(後に常山郡に改称)に属した。前113年(元鼎4年)、常山郡の北部に真定国が設置され、藁城県、肥塁県、綿曼県と共に真定県がその管轄とされた。後漢が成立した37年(建武13年、真定国は廃止となり真定県は常山国へと移管された。三国時代、真定県は魏常山郡の管轄とされ、続く晋代には常山郡治所が元氏県より真定県に移転したことより、河北中部の政治、経済、文化の中心地としての地位を確立している。578年(宣政元年)、北周は定州及び常山郡の一部に新たに恒州を設置し、真定県を管轄するようになった。596年(開皇16年)、真定県より常山県が分割されている。唐代も真定県が沿用されていた。689年(長安元年)、武則天により一時中山県と改称されたが、705年(神龍元年)に真定県に名称が戻され清初まで沿用されている。1723年(雍正元年)、真定県は正定県と改称され現在の名称が誕生している。歴史上、真定国、恒山郡、常山郡、恒州、鎮州、真定府などが置かれてきた古都であり、河北中部の中心地であったが、近代に滹沱河南岸の石家荘の村に京広線の駅が開設されると、石家荘の経済的地位が高まり、政治経済の中心もやがて石家荘(一時、石門市と称された)へと移っていった。下部に1街道4鎮5郷を管轄する経済は農業中心で、食品工業、製薬工業、化学工業などの工場もある。河北省の古都であるため県城城郭や文廟が保全されているほか、隋代に建立された隆興寺などの古跡が位置する。また東魏の540年(興和2年)に県城東南の滹沱河岸の臨済村に建立された臨済寺は、臨済義玄が臨済宗を興した寺院として有名である。その他、広恵寺、天寧寺、開元寺、福慶寺など東魏から唐にかけての仏教寺院の建物や跡が存在する。
出典:wikipedia
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