LINEスタンプ制作代行サービス・LINEスタンプの作り方!

お電話でのお問い合わせ:03-6869-8600

stampfactory大百科事典

伝馬町牢屋敷

伝馬町牢屋敷(てんまちょうろうやしき)は、かつて江戸に存在した囚人などを収容した施設である。現在は東京都中央区立十思公園になっている。江戸時代の刑法には現在の懲役や禁固に類する処罰が原則として存在せず、伝馬町牢屋敷は現代における刑務所というより、未決囚を収監し死刑囚を処断する拘置所に近い性質を持った施設である。所在地は日本橋小伝馬町(現在の日比谷線小伝馬町駅周辺)一帯に設置され、2618坪(約8639平方メートル)の広さがあった。常盤橋外に牢屋敷にあたる施設が設けられたのは天正年間。それが慶長年間に小伝馬町に移って来たようである。明治8年(1875年)に市ヶ谷監獄が設置されるまで使用された。周辺は煉塀で囲まれ、堀が巡らされており、南西部に表門、北東部に不浄門が設けられていた。高野長英や吉田松陰らも収容されていた。牢屋敷の責任者である囚獄(牢屋奉行)は大番衆の石出帯刀であり、代々世襲であった。その配下として40人~80人程度の牢屋役人、獄丁50人程度で管理をしていた。囚人を収容する牢獄は東牢と西牢に分かれていた。身分によって収容される牢獄が異なり、大牢と二間牢は庶民、揚屋は御目見以下の幕臣(御家人)、大名の家臣、僧侶、医師、山伏が収容されていた。また独立の牢獄として揚座敷が天和3年(1683年)に設けられ、御目見以上の幕臣(旗本)、身分の高い僧侶、神主等が収容された。身分の高い者を収容していたため、ほかの牢より設備は良かったようである。大牢と二間牢には庶民が一括して収容されていたが、犯罪傾向が進んでいることが多かった無宿者が有宿者(人別帳に記載されている者)に悪影響を与えるのを避けるため、宝暦5年(1755年)に東牢には有宿者を、西牢には無宿者を収容するようになった。また安永5年(1775年)には独立して百姓牢が設けられた。女囚は身分の区別なく西の揚屋に収容された(女牢)。収容者の総数は大体300~400人程度だったようである。牢内は囚人による完全自治制が敷かれており、牢屋役人ですら権限の及ばない世界であった。また、幕府が指名した牢名主を頂点とする厳然たる身分制度が敷かれており、平囚人には牢内で体を伸ばす権利すら与えられていなかった。食事は1日朝夕の2度。玄米5合(女囚は3合)と汁物が支給された。漬物は牢内でこしらえていた。牢内の人員が増え、生活するのに支障をきたすようになると「作造り」と称する殺人が行われた。主に牢内の規律を乱す者、元岡っ引や目明し、いびきのうるさい者、牢外からの金品による差し入れのない者などが標的にされた。暗殺後は「病気で死にました」と届け出て、特に咎めが来ることはなかった。牢獄には窓がなかったため、風通しも悪く日光も入ってこなかった。栄養状態も悪くトイレも牢内にあったため、内部の環境は非常に劣悪であった。医師はいたが、いい加減な診察しか行わなかったため、飛び火や疥癬を主とする皮膚病に罹患する者が後を絶たず、主人や親を傷つけた者(逆罪)以外で体を壊した者は溜に収容された。

出典:wikipedia

LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。