矢野 謙次(やの けんじ、9月21日 - )は、東京都三鷹市出身のプロ野球選手(外野手)。愛称は「ヤノケン」。北海道日本ハムファイターズに所属する。東京都三鷹市出身。小学校2年の時に「三鷹リトルシニア」で野球を始める。同じリトルシニアに元中日ドラゴンズの高江洲拓哉も所属していた。三鷹市立第六中学校時代の「三鷹シニア」ではエース兼四番打者として関東大会に出場。國學院久我山高校では同級生に笠木新がいた。國學院大學時代、東都リーグ2部で通算23本塁打を記録するなどで「井口資仁二世」と呼ばれ、当時高校の先輩である井口が所属していた福岡ダイエーホークスや日本ハムファイターズが獲得意思を示したが、矢野は高校時代から注目してくれていたという読売ジャイアンツ(巨人)への入団を熱望していた。同球団関係者は「足が速いし、魅力がある。打撃もパンチ力があり、遠くへ飛ばす力を持っている」と高く評価していた。2002年度ドラフト会議にて巨人から6巡目指名を受けて入団。新人年のは松井秀喜がフリーエージェント権を行使して退団したこともあり一軍キャンプに帯同。オープン戦では同期入団の長田昌浩と共に安打を打つがペナントでは活躍できず。同年オフに結婚。にプロ入り初安打・初本塁打を記録。翌のシーズンは主に二番打者、右翼手・中堅手として85試合に出場。打率.281、本塁打7の成績を残した。7本塁打のうち4本を横浜ベイスターズの土肥義弘から打った。は、4月終了時点でセントラル・リーグの打率ランキングで2位につける好スタート。また、秋季キャンプで課題となっていたスローイングも補正され、走者をアウトにする場面も多くなり、とくに高橋由伸の中堅手への転向で空いた右翼手の守備に適性を見せた。しかし、6月12日に左足小指の骨折が判明し、出場選手登録を抹消される。7月11日の横浜戦(札幌ドーム)で一軍復帰し即先発出場。7月16日の対東京ヤクルトスワローズ戦で高津臣吾から決勝点となる6号本塁打を打った。その後は故障の影響などもあり徐々に成績が下降したが、盗塁11、二塁打18の数字を残した。シーズン終了後には秋季キャンプを辞退し、骨折箇所のボルト除去手術を受けた。は代打起用でシーズンを迎える。一時は中堅手としてデーモン・ホリンズや鈴木尚広と併用されたが、矢野が中堅手としての守備に不慣れな面を見せたことから、(原辰徳監督曰く)「攻撃と守備のバランスが取れた」ホリンズが先発として起用され、矢野は代打に回った。5月31日の福岡ソフトバンクホークス戦では代打逆転満塁本塁打を打ち、観戦に来ていた渡邉恒雄会長から「今日の一発は1000万円以上の価値がある」と賞賛された。代打逆転満塁本塁打は巨人ではに原辰徳が記録して以来、球団史上5人目(他には樋笠一夫、広野功、駒田徳広。樋笠と広野はサヨナラ)、代打の代打による満塁本塁打は初の快挙となった。6月11日の北海道日本ハムファイターズ戦では武田勝から決勝ソロ本塁打。1-0のスコアで勝利した試合で代打本塁打を打ったのは、の藤本英雄以来58年ぶりの快挙となった。序盤と終盤の不振もあったものの、出塁率.354、長打率.538、代打成績は39打数10安打で打率.256、本塁打4という数字を残した。は開幕前に右ひじの疲労骨折と診断され出遅れる。6月に一軍昇格するが故障が再発し数日で二軍降格。二軍調整中の7月には二岡智宏の不倫スキャンダルの現場に同席していたことが報じられた。9月に二軍戦復帰するが、秋季フェニックスリーグで右膝関節を痛め、オフに手術。この年は3試合の出場に留まり、5打数無安打だった。前半は手術のリハビリに費やし、8月6日のイースタン・リーグ公式戦(東京ドーム)で四番・指名打者として実戦復帰。復帰初打席で適時打を打ち、復帰後初打席初安打初打点を記録した。二軍成績は24試合に出場して58打数17安打1本塁打5打点、打率は.293。巨人のリーグ優勝後の9月28日に一軍昇格するが、6試合の出場に留まり9打数1安打だった。5月9日の横浜戦で2年ぶりの先発出場を果たすと、適時二塁打で3年ぶりとなる打点を記録。同年5月13日の埼玉西武ライオンズ戦でも先発出場し、適時二塁打を含む2安打2四球で4打席全て出塁した。シーズン終盤に代打の切り札として昇格後は安打を重ね、代打のみならず二番打者としての先発出場などとフル回転。最終的に42試合で74打数と少ないながらも自身初のシーズン打率3割を達成。代打成功率は12球団トップの.524だった。9月30日の広島東洋カープ戦では自身2度目の代打満塁本塁打を放った。同年は前年より打率を落とすも引き続き勝負強さを発揮した。は開幕前のシアトル・マリナーズとの親善試合で左足を捻挫。靭帯損傷で開幕戦出場選手から外れた。後半戦に復帰し、10月7日の横浜DeNAベイスターズ最終戦(東京ドーム)で1-1で迎えた延長10回裏に藤江均から自身初の代打サヨナラ本塁打を打った。日本ハムとの日本シリーズでは、6戦目に先発出場して先制打となる適時打を打ち、優勝に貢献した。は代打の切り札として大活躍し、監督の原から「神様」と賞賛された。代打成績は53打数19安打、打率.358。シーズン代打安打19は球団新記録となった。また、チャンスでの強さが際立ち、得点圏打率は.349、満塁では13打数6安打で打率.462だった。なお東北楽天ゴールデンイーグルスとの日本シリーズでは第7戦の9回に田中将大の前に三振を喫し、最後の打者となってしまった。はこれまでのような勝負強さが見られず打率.179と低迷した。も代打で出場するも8試合で14打数1安打、打率.071とさらに不調となり、6月10日、北篤・矢貫俊之との交換トレードで須永英輝と共に北海道日本ハムファイターズへ移籍することが発表された(支配下選手登録は翌11日)。前日から翌11日までの3日間、札幌ドームでは日本ハムと巨人との3連戦が開催されており、11日の試合前には矢野が須永と共に試合開始前の札幌ドームを訪れてライト側の外野スタンドに陣取る巨人のファンに別れの挨拶をした。2015年6月12日の対DeNA戦で、「6番・DH」としてスタメン出場し、6打数3安打と、移籍後初出場にして猛打賞の大活躍で、初のヒーローインタビューを受けた。6月14日、同一カード第3戦の6回裏に逆転3ランホームランを放ち、出場3戦目で2度目のヒーローインタビューを受けた「今まで(巨人時代)だったら、あそこの打席に立っていなかったと思うんですよね。絶対に代打を出されて代えられていた。あそこで(打席に)行かせてもらえて、絶対に打ってやろうと、マジ気合で打ちました」と目を潤ませながら語った。。また、このホームランは2013年8月22日の対ヤクルト戦以来の一発となった。その後もしばらくはヒットを重ねたが、シーズン終盤には長いスランプに陥り、最終的には40試合で76打数15安打1本塁打5打点、打率.197でシーズンを終える。2016年は古傷の右膝の違和感で出遅れ、5月27日に1軍昇格。痛みを抱えながらのプレーで代打限定、出塁すると即代走の形でシーズンを過ごす。34試合で29打数6安打1本塁打8打点、打率.207。昨年より出場機会は減らしたが、6月15日対DeNA戦の9回まで0対0の均衡を破る代打2ラン、6月27日対西武戦で不振の中田の代打で四球を選び直後に後続が大逆転、7月30日の対ソフトバンク戦の押出しサヨナラ死球、9月7日対ロッテ戦の逆転2点タイムリーなど、代打の切り札として数字以上の存在感を示した。日本ハムで一番仲が良いのは西川遥輝、移籍後一番最初に話しかけてくれたのが西川だという。
出典:wikipedia
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