大分パルコ(おおいたパルコ)は、かつて大分県大分市府内町にあった株式会社パルコ運営のファッションビル。JR九州大分駅から約200m北の中央通り沿いに位置する「大分開発ビル」の地下2階 - 地上7階部分に入居しており、店舗面積は約15,000m²であった。このビルは、地元企業などが出資する大分開発が所有するもので、同ビルの8 - 10階部分には、大分パルコの前身である西友大分店の開店時から、大分第一ホテルが入居していた。大分パルコは、1977年(昭和52年)4月29日に西友大分店を業態転換して開店。2011年(平成23年)1月31日に閉店した。大分第一ホテルは、大分パルコの閉店後も営業を続けていたが、2012年(平成24年)7月6日正午をもって閉館した。大分市は、1964年(昭和39年)に新産業都市に指定され、大分臨海工業地帯に企業が進出したことから、昭和40年代に人口が急増した。これに伴って、大分駅前の市街地には長崎屋(1971年(昭和46年))、大分ジャスコ、ニチイ、ダイエー(以上、1973年(昭和48年))といった中央資本の総合スーパーが相次いで進出し、激しい競争を繰り広げた。このような過当競争とも言うべき状況の中で最も遅く1974年(昭和49年)に大分市に進出して来たのが西友であった。西友が出店したのは、大分市の目抜き通りである中央通り沿いのかつて辰野金吾設計の日本銀行大分支店があった場所で、しかも、地元で圧倒的な人気を有する百貨店トキハと大分駅との中間という好条件の立地であった。しかし、地の利がありながら、最後発であったことも災いして顧客を開拓することができず、営業的に苦戦を余儀なくされた。開店から3年後の1977年(昭和52年)4月29日、西友大分店は、地下1階の食品売場部分を残し、同じセゾングループ(当時)のファッションビルであるパルコに業態転換し、大分パルコとして改装オープンした。パルコの出店は九州初であり、また、首都圏・京阪神以外では札幌市、岐阜市に次いで3店目であった。業態転換当初には西友の売場が一部残っていたことを反映して塔屋に「PARCO SEIYU PARCO」と西友とパルコの名称が併記されていた。後に西友は完全に撤退している。当時の大分市内の大規模小売店は、上記総合スーパー4店と百貨店のトキハの計5店であり、これらの店舗がカバーしていない若年層向けの商品をそろえた大分パルコには一定の需要があった。また、1980年代のDCブランドブームも大分パルコにとっては追い風となった。2008年(平成20年)2月29日には、ロフトの九州2号店となる大分ロフトが地下1階に開店した。しかし、1992年2月期には約116億円に上った売り上げが2010年2月期には約40億円にまで落ち込む見込みであること、賃貸借契約が2011年(平成23年)4月に満了すること、加えて福岡市の岩田屋天神本店旧本館跡に福岡パルコが開業したことから、2010年(平成22年)2月24日の取締役会において2011年(平成23年)2月末に閉店することが決定し、同日公表された。その後、10月15日に閉店を1月末に早めることが発表され、2011年1月31日をもって閉店した。テナントのうち、約4割は移転し、そのうち16店舗は近隣の大分フォーラスに出店した。また、残りの約6割は大分から撤退した。ビルを所有する大分開発では、パルコ閉店後も商業施設としての利用を計画し、カリーノ企画(カリーノ(旧「寿屋」)の関連企業)及び丹青社に、当時の出店者との交渉や新テナントの誘致を委託したが、2011年10月12日に商業施設としての再開を正式に断念した。なお、ビルの上層階に入居する大分第一ホテルは、パルコの閉店後も営業を継続していたが、商業施設の再開断念を受けて、2012年7月6日正午を以て閉館した。2012年9月6日、大分開発は大分パルコが入居していたビル及び土地を医療法人恵愛会に売却することを決定。恵愛会は、ビルを解体、新築して、現在大分市大手町にある大分中村病院を移転する予定。新たなビルは、病院を中心とし、病児保育施設や、中心市街地活性化に資する商業施設を併設した複合施設とすることが検討されている。当初は2015年度の開業を目指すとしていたが、大分駅周辺の再開発に伴う周囲の交通の整備計画が決定しておらず、救急搬送経路や駐車場の検討が遅れていること等から、遅れが見込まれている。2014年11月には、公募型プロポーザルの結果、設計業務の担当として久米設計・システム環境研究所JVが選定されており、設計が完了次第、着工する予定であるが、建設スケジュールは未定とされている。
出典:wikipedia
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