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村井秀夫

村井 秀夫(むらい ひでお、1958年12月5日 - 1995年4月24日)は、オウム真理教幹部。大阪府出身。ホーリーネームはマンジュシュリー・ミトラ、ステージは正大師。省庁制が採用された後は科学技術省大臣だった。教団では麻原に次ぐナンバー2、科学技術部門最高幹部と見られていた。子供の頃はSF少年であり、また望遠鏡で星を観察するのが趣味という親から見て全く手の掛からない子供であった。大阪府立千里高等学校を経て、大阪大学理学部物理学科卒業、大阪大学大学院理学研究科修士課程修了、理学修士。神戸製鋼に入社し金属加工の研究に携わる。1986年5月オウム神仙の会に入信する。入信理由は「かもめのジョナサン」の心境になったから。1985年4月に職場結婚した妻と1987年6月、夫婦で出家するが、1990年、ステージの違いを理由に協議離婚した。教祖麻原彰晃の最側近。1988年11月に大師、1990年8月に正悟師、1994年8月に正大師となり、教団の最高幹部の地位に上り詰めた。オウムの科学者としてPSI、「アストラル・テレポーター」、レーザー兵器「輪宝」などを開発する一方で、坂本弁護士一家殺害事件・サリンプラント建設事件・松本サリン事件・地下鉄サリン事件など、教団が起こした非合法活動では常に中心人物であった。1990年の第39回衆議院議員総選挙に旧東京8区から真理党公認で立候補したが落選している。また、教団が報道される中でもスポークスマンとしても登場し、第7サティアン(サリンプラント)は農薬工場であったとの主張を繰り返した。教団の中では、上祐史浩や青山吉伸のような権力欲は持たず、突き抜けて楽しそうにしていた。田原総一朗は、3女松本麗華に対し麻原は村井を信じていたのではないかと問うたところ、3女は「麻原は“村井を信じる奴はバカだ”と言っていた」と証言した。1995年4月23日に東京都港区南青山の教団東京総本部前で指定暴力団・山口組系羽根組の構成員の徐裕行に刺され、病院に搬送、手術をしたものの翌24日午前2時33分に出血多量により死亡した。しかし後に羽根組長の証言により、徐は羽根組とは全く無関係な人物と判明。当時村井はオウムの覚せい剤部門の担当をしていたとされ、オウムと覚せい剤の取引をしていた暴力団からの口封じで殺害された可能性ありと、実行犯徐の背後関係を警察は徹底捜査するも暴力団の詳細を摑めず組織の特定がされなかった。死ぬ直前、「ユダにやられた」と話していたと上祐史浩(当時外報部長)が会見で述べた。後の2000年2月の週刊プレイボーイ上のインタビューでは上祐史浩は、「彼(村井)は刺殺される直前に、オウム真理教の事件その他はユダヤの陰謀であると言おうとしていた、そんな気配がある」「ユダヤ叩きというのは、僕にはどういう意味なんかよくわからない」が、「彼はあの直前に、テレビに出演してユダヤ叩きをやろうという計画を立てていた」「刺殺される数時間前に彼から私の方に『ユダヤ叩きをやりますよ。今から戻ります』という電話があった」「彼はその直後に刺殺され」たと述べている。また、事件が起こったちょうどその日、オウム出版の編集部に彼が「ユダヤの陰謀関係の本を集めてくれ」と依頼していたという事実もある(丁度編集部では前年末にユダヤ陰謀を特集していたため)」という。村井の死によって、村井が知りうるオウム真理教事件の覚醒剤部門に関する供述が聞き出せなくなり、事件解明を遠のかせた。また、教祖の麻原彰晃の松本・地下鉄両サリン事件の裁判において弁護側が「村井を中心とする弟子たちの暴走」とする意見に反論をすることもできなかった。死亡したため村井本人は起訴されなかったが、オウム幹部の裁判という形で、村井のオウム事件への関与が認定された。

出典:wikipedia

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