レバノン人女性拉致事件(レバノンじんじょせいらちじけん)とは、1978年に北朝鮮の工作員により、レバノンから女性4人が拉致された事件である。1978年夏、首都ベイルートのYWCA秘書学院に2人の東洋人が訪れたことが発端である。2人は日本の日立製作所の関係者を名乗り、「容姿端麗で未婚、フランス語ができる女性」を秘書として募集している旨を告げ、現地の女性に応募を呼びかけた。そして応募の結果採用が決まった女性4人(一説には5人とも言われる)を目的地であるはずの日本ではなく、ベオグラード経由で北朝鮮に拉致したのである。日本に着いたら便りが来ると信じていた家族達は、便りも来ず娘達が安否不明の状況になっていることに不安を感じていたが、この時点では娘達が拉致されていたことは知らない。一方北朝鮮に連れてこられた女性達は主体思想に基づいたスパイ教育を受け続けており、約束が違うと度々上司に帰国を依願したが断られた。自分達を何としても「青い目のスパイ」に仕立てようとしていることを悟った女性達は、表向きは従順な態度をとりつつ、脱出の機会を待った。女性達は1979年夏までに何度か工作活動の練習として海外に行くことがあった。そして遂に2人がベオグラードのホテルで「美容室に行きたい」と願い出て許された。そのまま2人は市内のレバノン大使館に逃げ込み保護され、ここに女性達が北朝鮮によって拉致されていたことが明らかになったのである。拉致が発覚して捜査も開始された。その結果最初にYWCAを訪れた東洋人2名は実は北朝鮮の工作員であり、またこの事件にはレバノン国内の協力者が存在していたことも明らかになった。このようにして事件の全容が次第にが明らかになっていったことで、レバノン国内では連日のように事件の報道がなされ、世論の後押しが政府を動かした。レバノン政府は北朝鮮に強硬に抗議し、国交断絶を宣言。女性返還に応じなければ武力による攻撃やもすると更に圧力をかけた。これに対し北朝鮮も残りの女性全員を年内に解放し、果たして女性達は無事にレバノンに帰還することができた。そして両国は1981年までに国交を回復している。日本では1987年の大韓航空機爆破事件に際し、1988年に主犯の金賢姫の教育係として拉致された日本人女性に関する国会答弁の中で、被害者奪還に成功した事例としてこの事件が取り上げられ、1997年に日本人拉致事件が浮上して再びこの事件が国会答弁だけでなく、関連書籍などにも「成功事例」として度々取り上げられている。逆に日本政府がレバノン政府のような強硬策で拉致被害者を奪還できないのかという声も沸き上がった。なおこの事件当時日本では横田めぐみやアベック失踪事件などの事件が相次いでいたこともあり、97年以降多くの日本メディアが北朝鮮で拉致された日本人情報を求めて、度々レバノンを訪れた。しかし彼らの思惑とは裏腹に、事件の被害者となった彼女達の心の傷は深く、事件以降はお互いの連絡すら絶っており、取材も断り続けている。被害者女性の1人は北朝鮮に戻り、現地で韓国から亡命してきたアメリカ兵と結婚し家庭をもった。アメリカ兵は1960年代前半に4名が北朝鮮に亡命していることが確認されており、このうちの1人が曽我ひとみの夫となったチャールズ・ジェンキンスであった。
出典:wikipedia
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