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パテーの戦い

パテーの戦い(Battle of Patay, 1429年6月18日)は北フランス中部のパテー近郊で行われた百年戦争の主要な戦闘。攻勢にでたフランス軍によるこの戦いが戦争の流れを変え、野戦で絶対的劣勢だったフランスのこの勝利により、イングランド軍退勢の流れを作り出した。また、ランスへの道が開けたことにより、不義の子、私生児とされていた王太子シャルル(後のシャルル7世)の戴冠を実現し、正当性を知らしめることができる主因となった。ジャンヌ・ダルク率いるフランス軍は、オルレアンの包囲を解いた後もロワール河流域で小規模な戦いを展開した(ジャルジョーの戦い、ボージャンシーの戦い、モン=シュル=ロワールの戦い等)。1429年6月12日にジャンヌの軍がジャルジョーを占領し、イングランド軍の重要な司令官の1人であるサフォーク伯を捕らえた。それを知ったリッシュモン大元帥はシャルル7世の宮廷顧問及び王自身から追放同然となっていたが、子飼いのブリトン人の騎兵2000人と弓兵800人を率いて合流の動きをみせた。激しく対立していた筆頭侍従のジョルジュ・ド・ラ・トレモイユはこれを知り、リッシュモン軍を対決してでも合流を阻止するように命じた。ジャンヌと司令官アランソン公はこれに従おうとしたが、配下の武将たちのラ・イル、ジャン・ポトン・ド・ザントライユ、ジャン・ド・デュノワらは、すでに武勇の誉れ高かったリッシュモン大元帥を迎え入れて合力すべしと主張した。ジャンヌはこれを受け入れ、リッシュモン軍はジャンヌの指揮下に入り、実質的な指揮をリッシュモン大元帥が執った。ただし、リッシュモン大元帥はこの戦いの後に王から再度追放され、ジャンヌとの共同戦線はこれっきりであった。6月18日、リッシュモン軍の合流を知ったボージャンシーは戦意を無くし、降伏した。イングランド軍の指揮官シュルーズベリー伯ジョン・タルボットとジョン・ファストルフは直ちに反撃に出たが、要衝のマン橋をフランス軍に固められていたために反撃に失敗し、イングランド軍はイル・ド・フランス方面へ撤退を試みた。それに対してフランス軍は追跡を行う。リッシュモンの配下の武将ボーマノワールとブーサックに加え、歴戦のザントライユとラ・イルが騎馬部隊を率いて前衛となり、ジャンヌとリッシュモン大元帥が本隊となって後に続いた。イングランド軍はオルレアン解放以来の負け戦を得意の野戦で挽回すべく迎撃を行った。タルボットはパテーの町近郊の森と生垣を利用して陣を張った。ラ・イルは英軍の潜んでいる場所を察知し、当時の常識であった突撃前の陣形整列と名乗りを行わずに、突撃を開始した。そのためにイングランド軍は得意の長弓部隊の準備の隙を衝かれて奇襲の形となった。その結果、イングランド軍は壊乱状態となり、そこへ本隊が投入されてイングランド軍は壊走した。タルボットはフランス軍の捕虜となり、ファストルフは僅かな部隊と共に敗走した。その為ファストルフはベッドフォード公ジョンにガーター勲章を剥奪された。この戦闘は百年戦争の大規模野戦におけるフランス軍の初めての勝利であった。この奇蹟とも言える勝利はジャンヌのオルレアン解放やランスへの行進と並ぶ意義を持っており、これ以降の野戦における両軍の勝敗は一変する。パテー以前にフランス軍は野戦では必敗といっても過言ではなかったが、これ以後は野戦においてもフランス軍はイングランド軍に勝利を収めることができるようになった。この戦闘を最後に、フランス軍のロワール河流域における軍事行動は終了し、彼等はライン川以北へと行軍した。その後、フランス軍はランスに到達し、シャルル7世の戴冠は実現されるのである。しかしながら、ジャンヌはリッシュモンを軍に留めたがっていたが、彼は宮廷内の勢力争いの中心であり再び国王軍から離れ、ランスでの戴冠式にも参加できない有様であった。

出典:wikipedia

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