反メイソン党()は、アメリカ合衆国で19世紀に存在した小さな政党である。フリーメイソンに対して強く反対し、単一問題政党として設立され主要政党になることを志向した。候補者指名集会や綱領の採択などアメリカの政治に重要な新機軸を導入した。反メイソン党は1828年にニューヨーク州北部で創られ、アメリカの国政では初めて第3の政党になった。多くの人々はフリーメイソンが共和制の原理を無視して国を支配しようとする強力な秘密結社だと信じて恐れていた。またある者はフリーメイソンがオカルトや魔術、儀式用の魔法に結びつけられていると疑って反対していた。これらの人々はモーガン事件でフリーメイソンがその敵を殺していると確信するようになり、寄り集まって政党を作った。重要な出来事はニューヨーク州バタビアのフリーメイソン、ウィリアム・モーガンが1826年に不可解な失踪をしたことであった。モーガンは自分の階級に満足せず、地元のロッジに関する秘密を出版していた。モーガンの行動がロッジに知られると、モーガンは度々不快な事に遭い、遂に1826年9月には何者かに捕まって密かにフォート・ナイアガラに連れて行かれ、その後失踪した。さらにモーガンの信用を落とすために、フリーメイソンがモーガンの出版した本を2回改訂して出版し、それを読む会員にモーガンはフリーメイソンの秘密を全く出版してはいなかったように思わせた。この事件が大きな刺激を与え、多くの者を地方のロッジではなく全てのフリーメイソンが善良な市民と対立しているように信じさせた。判事、実業家、銀行家および政治家にフリーメイソンが多かったので、庶民はエリート主義者の集団と考える様になった。さらに多くの者はロッジの秘密の誓いによって裁判所やその他の場所で部外者よりも仲間内を大事にするように規制していると論じた。モーガンの共謀者の裁判が処置を誤り、フリーメイソンはさらなる審問で抵抗したので、フリーメイソンの裁判官は宣告を出せず、フリーメイソンの陪審員は階級のある仲間を有罪にはできないということがその敵対者の信仰箇条になった。フリーメイソンは一般民衆にたいして不公平な利点を有する排他的な組織であり民主主義の基本的な原則に違背していると考えられた。反対者達は、真のアメリカ人は結束してこの陰謀を打ち破らねばならないと言った。フリーメイソンに対する反対意見は一種の宗教的な聖戦として各教会に取り上げられ、1827年早くにはニューヨーク州西部で多くの大衆集会が開かれ公的役職にはフリーメイソンを就けないという決議があり、地方の政治問題にもなっていった。当時のニューヨーク州では、国民共和党、すなわち「アダムズを支持する者達」が組織的に弱く、賢明な政治指導者たちは速やかにこの強い反メイソン感情を利用して勢力を増しているジャクソン流民主主義に対抗する新しく活発な党を作ることにした。この動きの中で、アンドリュー・ジャクソンが高い階級のフリーメイソンであり、しばしばその階級を褒めていたことにも助けられた。ナイアガラ川に浮かんでいるのを発見された死体が選挙の後まで「全く十分なモーガン」であるという、政治的なまとめ役サーロウ・ウィードの嫌疑をかける(サーロウ・ウィードがしたとされている
出典:wikipedia
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