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筑紫哲也 NEWS23

『筑紫哲也 NEWS23』(ちくしてつや ニュース・ツー(トゥー)・スリー、英称:"TETSUYA CHIKUSHI NEWS 23")は、1989年(平成元年)10月2日から2008年(平成20年)3月28日まで、TBS系列(JNN)で平日(祝日含む)23時台に生放送されていた、平日最終版の報道番組である。これ以降も『NEWS23』ブランドは継承されている。キャッチフレーズとして、「真夜中のニュースランド」(番組初期)が存在していた。TBSの平日ニュース最終便は、1987年(昭和62年)10月から22時台にニュース番組(『JNNニュース22プライムタイム』、1988年(昭和63年)10月からは『JNNニュースデスク』)、23時台後半に『JNNスポーツチャンネル』、24時台に『情報デスクToday』を編成。1989年10月改編で22時台ニュース番組から撤退。21時以降のTBSの平日のテレビ編成の見直しと兼ねて、23時台のニュース番組新設の際に筑紫哲也をメインキャスターに迎えた『筑紫哲也ニュース23』を開始した。TBSは以前から、テレビの出演経験の豊富な筑紫にニュース番組のキャスターを打診していた。しかし、TBSと資本関係にない朝日新聞社に在籍していたこともあり、筑紫は円満退社を希望。それが筑紫のニューヨーク転勤を機に円満退社に向けた準備が整い、ようやくTBSの打診を受け入れた。番組名に使われている数字「23」は放送時間の由来もあるが、野球のボールカウント(SBO方式)におけるフルカウントこと「ツーストライク スリーボール」の略称の由来もあり、読みは「にじゅうさん」や「トゥエンティースリー」ではなく「ツースリー(トゥースリー)」の読みになった。これは当時視聴率が低迷していたTBSの平日最終版ニュースの「起死回生」にかけた。筑紫は番組スタート当時の雑誌インタビューや自らの著書『ニュースキャスター』などで「『君臨すれども統治せず』の編集長」と自らの立場を説明していた。1989年10月2日、TBSにおける夜のワイド編成の報道番組の原型となった『ネットワーク』以来となる深夜帯での1時間半に及ぶワイド編成の報道番組として放送開始。出演者は、筑紫哲也、浜尾朱美・池田裕行を中心に進行。スポーツキャスターの初代は野球解説者の小林繁。初期は2部制を採った。第1部で報道局とスポーツ局が制作するニュースと特集、スポーツニュースを放送、23:50もしくは24:20からのローカル枠を挟み、23:55もしくは24:22からの第2部では社会情報局(TBSビデオ問題後の社内改革で廃止)が主に制作する特集を放送。ただし当時、番組は第1部と第2部という呼び方の他、「報道」「スポーツ」「情報」の3つから成る、という表現もしており、当初はテレビ雑誌の番組表では23:30から「スポーツ23」という表記がみられたが、第1部内の時間分けはだんだん曖昧になっていった。第2部はアシスタントを阿川佐和子、三崎由紀、有村かおり、後期は渡辺真理が務めた。ニュース部分を報道局担当パートに集約させたため、いわゆる「企画枠」として、インタビューからドキュメントまで幅広く扱った。そのため、いわゆる硬派のジャーナリズムを標榜する第1部とは対照的に第2部はワイドショー(マガジン)的要素の強いものだった。第2部は『情報デスク』時代から「任意ネット=ローカル」枠で、ネットしない放送局があった。当初は第1部の終わりに(第2部のエンディング曲のインストルメンタル版をBGMに)筑紫もしくは浜尾が「今日のニュースとスポーツをお伝えしました」と締め、第1部でネットを終える局への挨拶代わりにしていたが、2部ネット局が増えるにつれて簡素になっていった。ただし特番等で全局が1部で終了する場合は同じBGMできちんと締めていた。この頃の新聞のラ・テ欄表記は「筑紫哲也ニュース23」であった。1997年9月29日にリニューアル。筑紫と1996年10月から出演していた佐古忠彦に加え、草野満代・進藤晶子の4人となる。金曜以外の第2部を廃止(若者向け情報バラエティ『ワンダフル』をスタートさせる)。オープニングテーマ曲が坂本龍一作曲のものに刷新されて、Nスタジオのセットや番組ロゴ・グラフィックデザインもリニューアルし、新聞表記も「ニュース23」(初期のロゴから英語の「NEWS23」となったまま)から「NEWS23」となった。リニューアルに合わせて、30分遅れの金曜を通称「金曜版ニュース23」とし、第2部を「金曜深夜便」と改称。1999年からは金曜日のテーマ曲をピアノアレンジ違いとしている。1998年4月からは月曜から木曜の放送開始時間が6分繰り上がり、22:54開始のフライングスタートとなった。リニューアル当初、佐古は1999年9月まで月曜日から木曜日の出演だった。1999年10月より、全曜日出演となる。同時にスポーツキャスターが進藤晶子から小倉弘子に交代。2000年からの3年間、2月に年間テーマを基にした5日連続特番を放送。その日のニュースは手短に伝え、さらに放送時間を30分拡大して放送した。2004年10月からは月曜日の放送を拡大し、第2部復活版ともいえる企画「マンデープラス」を開始。同時にスポーツキャスターが小倉弘子から久保田智子に交代する。2005年3月28日から、TBSが日中の報道・情報系生ワイド番組のリニューアルに伴い、「NEWS23」もタイトルロゴ、セット、テーマ曲を1997年秋以来7年半ぶりに新しいものに変更した。天気予報も全曜日で気象予報士でタレントの山田玲奈が務めた(2004年4月から2005年3月までは金曜日のみ気象予報士の真壁京子が務めてきた)。2006年9月25日、筑紫以外の出演者のリニューアルを行う。フリーランスの膳場貴子と山本モナに加え、高野貴裕がスポーツキャスターを担当。また、これまでは金曜日に限りオープニングの音楽がピアノバージョンだったが、このリニューアルをもって金曜日のオープニングはピアノではなく他の曜日と同じアレンジとなっている。しかし、出演者の離脱・休養・加入が相次ぐ。(詳しい経緯は後述)。リニューアルしたその週に、山本モナが写真週刊誌『フライデー』に不倫報道を報じられ、翌週から出演を見合わせ、そのまま降板となる。これを受けて、12月に出水麻衣・岡山裕子が加入、2007年3月に三澤肇が加入する。一方、筑紫は2007年5月から病気治療のために入院することになった。筑紫は入院中も音声メッセージによる出演を行い、10月には5ヶ月ぶりにスタジオから出演。以後は不定期の出演となる。筑紫の不在を受けて、2007年12月3日から後藤謙次(元共同通信社編集局長)がメインキャスターに就任。筑紫は「スペシャルアンカー」として、大きなニュースがある場合のみ出演する事となった。後藤が就任した後も暫しの間『筑紫哲也 NEWS23』のまま放送したが、2008年3月28日放送の筑紫出演回で「来週からの番組リニューアルで、タイトルから私(筑紫)の名前が消えます。ただ、体力の許される範囲・番組にプラスになると思える範囲内で番組には関わりたい」と挨拶。2008年3月31日より、番組名から筑紫の名前を外して、単なる『NEWS23』となった。『筑紫』時代は一貫して柳志津男がニュース・特集企画のナレーションを担当。スポーツニュースは時期の詳細は不明であるが、真中了(水曜まで)と八戸優(木曜・金曜)が担当した。筑紫の休暇や出張、療養などで休みの時は、初期は黒田清、しばらくは嶌信彦、秋山豊寛らが代理を務めていた。末期は休暇の場合、前述の嶌をはじめとした文化人や評論家が日替わりで登場するようになったが、キャスターというよりはコメンテーター的ポジションであり、「多事争論」以降の番組後半からは登場しなかった。実質上の代理は浜尾や草野らのサブキャスターが務め、2006年9月以降および、筑紫闘病・休養中は膳場が担当。1991年から2008年までは、その年の年間テーマを掲げ、シリーズ特集を組むことがあった。2008年は後藤謙次がメインキャスターだった時期だが、筑紫は『地球破壊』シリーズでアイスランド取材を行っている。筑紫が好きな言葉である福澤諭吉の言葉を拝借したコラムコーナーで、1992年10月5日開始。90秒、筑紫の私的な意見や感想を述べた。テーマは筑紫がフリップに毛筆で書いて掲示した。1997年9月から1998年9月まではフリップを用いず、大型モニターにテロップで筑紫直筆のタイトルと関連する映像が映し出され、その前に筑紫自身が立って話すというスタイルをとっていた。筑紫が事実上メインキャスターを退いた2007年5月からはあまり放送されなくなり、入院・療養中の2007年6月から同年9月までは音声のみで出演した。『TBSビデオ問題』では、当時のTBS社長・磯崎洋三が過ちを認めた1996年(平成8年)3月25日の記者会見の後、その日の「多事争論」にて筑紫は「TBSは今日、死んだに等しいと思います」「過ちに対して(中略)つまり、その後の処理の仕方というのが殆ど死活に関わるということを、これまでも申し上げてきました。その点でもTBSは過ちを犯したと私は思います」「今日の午後まで私はこの番組を今日限りで辞める決心でおりました」と発言し、「身内に甘い」と評されるテレビ業界にありながら、TBS局内で自身の報道番組から身内に対して痛烈批判をした。筑紫が夏休みで番組を休んだ場合、各日のゲストコメンテーター(嶌信彦や岸井成格、東京大学の姜尚中教授など)が「多事争論」コーナーで意見を述べている。コーナー開始前の小映像もそれぞれその日のコメンテーターが登場するものである。2007年7月には、「私の多事争論」と題して、落語家の立川談志が出演した。筑紫哲也の多事争論は番組公式サイトにて、後日RealPlayerにて映像のネット配信がなされた日本初・当時としては『先駆的』な取り組みをしたコーナーであった(なお、『23』のハイライト配信は2001年から)。いわゆる「ブロードバンドインターネット接続」が当時それほど普及しておらず、日本のテレビ放送局ではTBSが自社のニュースサイトでニュース映像を公開していた。ただし、多事争論開始当初からしばらくの間は映像は無く、テキストで書いてあったのみ。2006年頃からTBSニュースバードでもこのコーナーのみで0時30分、1時30分(月曜と金曜深夜は2時30分も)からの放送で放映されていた(2008年3月まではEPGにはタイトルが掲載されていたが、当該枠は最新ニュースとスポーツニュースを送っていた。主要ニュースとスポーツはこの番組からの再構成である。同4月以後は「みっどないとバード」=0時から4時半までのゾーン総称になっている)。第1部と第2部の合間にあったローカルニュース枠で放送されていた街頭インタビューコーナー。ひとつのトピックをもとに街頭インタビューを行い、賛成、反対、それ以外などさまざまな意見を織り交ぜて紹介した。スポーツコーナーでパロディを放送したことがあり、全国化を果たした形となった。2部制終了後は多事争論とセットで全国枠での放送となっていたが、月曜日の第1部エンディングと「マンデープラス(のちの月ONE)」の間のローカル枠での放送という番組初期と同じ時間となり、一部地域では視聴できなかった。「月ONE」廃止後とともに消滅。ただし、NEWS23になった後、2014年の最終放送で一時的に復活した。月曜から木曜までは「第2部」に特集が放送されてきた。『情報デスクToday』から引き続き社会情報局が制作を請け負ったが、TBSビデオ問題による廃止により報道局が引き継いだ後、1997年9月29日、バラエティ番組『ワンダフル』開始に伴い終了した。初期の第2部のネット局に関しては、前身となる『情報デスクToday』のネット局が少なく、当初は毎日放送(MBS)やRKB毎日放送(RKB)などを中心に放送しない局が多かった。山陰放送は、「〜Today」はネットしていたが本番組になって第1部のみに変更された。その後、第2部が評判を呼び、徐々にネット局が広がった。筑紫は山陰放送が2部ネットを開始した直後の1991年10月の米子での講演で、「第2部をネットしないと講演依頼も受けない、と言ってきた」と発言し、自らネット拡大に努めていたことを明かした。ただし、MBSだけは一貫して第1部のみ放送する体制を続けた。内容が幅広かっただけに逸話もある。人気コーナーだった『筑紫哲也の真夜中トーク』(テーマソングはテイク6の曲を使用)では中継先のゲストと筑紫がトークをするものだったが、ゲストに中継先の和田アキ子が登場した際に筑紫が「和田さんですか?」と聞いた際、和田が酒を大量に飲んでいた為に酔った勢いで「なんだよ!」「しらねーよ!」など暴言を吐き、暴れたりしたことから、和田の回で打ち切りとなった。金曜第2部はローカルニュースとCMを除くと10分間と短く、1997年10月『ワンダフル』開始後も唯一の第2部として継続。正式に「金曜深夜便」となり、筑紫降板後も2009年3月まで続いた。文化(カルチャー)で際立つ人選を行うことがある。1999年忌野清志郎がパンク・ロックに編曲した『君が代』が国旗国歌法制定と合わさり発売延期騒動となった際、バンドを率いて『君が代』を披露。2007年には銀杏BOYZがスタジオ生演奏、『光』を披露した。インリン・オブ・ジョイトイや、放送禁止用語を連発してテレビ・ラジオから締め出しを食らった鳥肌実も登場した。2004年10月改編を機に月曜のみ第2部が復活。マンデープラスと読むが、表記上は『月+』、2006年秋から『MONDAY+』とした。23:55から24:25までの30分、ドキュメンタリーを放送した。年間テーマ以外ではない短期集中型のシリーズ企画。話題になっているテーマに関することや現代社会を捉えるものまで多種多様。その他随時著名人と筑紫による対談「筑紫録」が放送されていた。筑紫1周忌に当たる2009年11月より随時、TBSチャンネルで「筑紫哲也 NEWS23 対談特選〜時代を映す言葉たち」として放送された。国家首脳と事前に番組が選考した日本国民とのタウンミーティングが何度か企画された。元々アメリカ合衆国連邦政府がビル・クリントン大統領(当時)日本訪問の際にタウンミーティングを計画し、駐日大使へ定期的にインタビューを行っていたNEWS23に対してオファーしたもの。収録された本編にCMは一切流さない、などアメリカ流の手法がそのまま持ち込まれた。23から持ち込んだ企画は、ゲストインタビューで恒例だった5つの質問がある。最後に多事争論にて「本当に小渕さんに申し上げたいんですが、今度は『あなたの番』です」と、小渕恵三内閣総理大臣への出演依頼で締めた。司会は筑紫が、フォローアップと観客にマイクを渡す役目として草野・佐古・田丸美寿々(JNN報道特集キャスター)が出演。この時、大阪市から中継で質疑が行われ、クリントン不倫疑惑について質問した。大阪は田丸一男(毎日放送アナウンサー)がフォローアップを行った。クリントン大統領出演時の舞台裏はタウンミーティング翌日の番組で特集され、アナウンサーのロッカーも私物を残さないで空にさせたり、タウンミーティングの収録スタジオは収録に直接関係する「特別通行証」所持の社員以外は、前日から社員でも近づけなくするなど局内に厳戒態勢が敷かれた様子が放送された。アメリカ合衆国では、劇場やコンサートホール(多目的ホール)で行われる為に、放送局のスタジオで開催したのは貴重な事例である。李明博出演の回には草彅剛が出演し、質問を行った。新聞発表上では月 - 木曜の番組開始時間が22:54になっていたが、実際は22:56開始であった(22:54時点では、2分間CMを流していた)。プロ野球中継の延長や、ドラマ・バラエティ番組の拡大・特番編成により、放送時間が変更される場合もしばしばあった。年末年始は特番編成の関係上、放送を休止している。代替番組として、15分間の『JNNニュース』を23:30頃に設けている。また、(国際的な)ゴルフ中継やテニス中継(ダイジェスト・総集編含む)などで、第2部を休止した事もあった。2008年以降はNEWS23#放送時間を参照。1997年9月まで続いた第2部は徐々にネット局を拡大させて最終的には毎日放送(MBS)を除く全局が放送するに至った。「マンデープラス(月+)」は中部日本放送(CBC)・チューリップテレビ・毎日放送・テレビ山口は放送しない。毎日放送は金曜の第2部もネットせず。放送開始から1997年9月までのエンディングテーマは筑紫が選び、アーティストに直接頼み込んで実現したものもある。坂本龍一以降はオープニングテーマのアレンジ版を放送した。一時期、筑紫が司会し、キャンペーンにもなった『地雷ZEROキャンペーン』のテーマ曲『ZERO LANDMINE』が、エンディングにかけられたこともあった。『NEWS23』放送開始の4年前からテレビ朝日が放送していた『ニュースステーション』(Nステ)との間では、よく比較の対象となっていた。『Nステ』が放送終了した2004年3月26日の『NEWS23』では、「多事争論」で「この番組(Nステ)が無かったら私たちの番組も生まれていなかっただろう、ライバルというより『同じニュースというものを追究している仲間だ』という想いが強くあります」と述べた。ように互いに意識していた。番組の内容については筑紫の「君臨すれど統治せず」の姿勢により、筑紫や編集担当者が関心のあるテーマを重視する傾向にあるとされ、賛否両論になることもよくあった。アーカイブページが残されているが、多事争論以外はトップページから誘導されないようになっている。

出典:wikipedia

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