学園前(がくえんまえ)は奈良県北西部の地域である。奈良市西部(伏見・富雄)から生駒市にまたがる。近鉄学園前駅を核とする。西ノ京丘陵の一部にあたり、近鉄の主導で1950年ごろから宅地開発が行われ、住宅地が広がっている。中心となる近鉄学園前駅は特急停車駅であり大阪市まで約20分というアクセスの良さから、近隣の登美ケ丘や帝塚山と共に大阪市内に勤務する重役が住居を構える高級ベットタウンとして閑静な住宅地が広がる。「学園前」の名前の由来となった帝塚山学園は、学園前駅の南口から徒歩1分である。学園前は奈良県の北西部、奈良市と生駒市の境界付近に位置する。地域の核となる学園前駅は奈良市の西部にある。学園前駅から直線距離で奈良市役所までは約5km、生駒市役所までは約4.5km離れている。大阪市中心部から25km圏内、神戸市中心部からは55km圏内、京都市中心部から40km圏内、奈良市中心部から10km圏内に位置するため、学園前駅から電車に乗車すると大阪難波駅まで30分弱、京都駅まで40分強、近鉄奈良駅まで約10分の所要時間で到着できる。学園前に位置する住宅地と学園前駅間は、路線バスを利用して移動できる。さらに2006年に開通した近鉄けいはんな線を利用すれば学園前駅の北約3kmに所在する学研奈良登美ヶ丘駅や北西約4kmに所在する学研北生駒駅から大阪市営地下鉄本町駅まで40分弱で移動できる。学園前駅南側には奈良市役所西部出張所が設置されており、奈良市西部地区の行政サービスの拠点となっている。現在の「学園前」は旧生駒郡富雄町東部、生駒郡伏見町北部、生駒郡平城村西部(以上、現奈良市)、生駒郡北倭村南部(以上、現生駒市)に相当する地域である。旧自治体の境界線が通る地域が開発されたため、奈良市域に学園地区自治連合会を設立する際、旧自治体ごとの自治連合会との折衝が紛糾し、最終的には強引にまとめ上げたというエピソードが残っている。奈良市役所西部出張所の前身は学園地区自治連合会の要望により設置されたが、このような学園前の位置に起因する問題が噴出し、現西部出張所の設置までには相当な努力が必要だったという。学園前は学園前駅を最寄駅とする一帯の地域名であると認知されており、自治体の資料、新聞、住宅情報誌などにその名が登場する。しかし、自治体が告示などで定めた正確な地名ではないため、学園前の範囲は一意に定義できない。1982年に発行された参考文献では当時の奈良市西部出張所長への短いインタビューを交え、学園前の範囲には以下の3説があると述べている。1970年に発行された参考文献の中で森田勝(元学園地区自治連合会長で当時の奈良市議会議員)は学園前の範囲を定義するのは困難であると前置きした上で、上記 3. の説では漏れる地域があるとし「学園前駅前のショッピングセンターを利用される方々の住む範囲」を学園前と定義している。奈良市公式Webページのコンテンツでは奈良市の都市計画の例として学園前を取り上げている。このWebページでは学園前駅より北方・南方に離れた地区の開発を「学園前開発の流れ」として説明し、学園前駅周辺の住宅開発時期を地図と年表でまとめている。このコンテンツに掲載されている地図が示すのは以下の範囲である。(開発年代順に並べた上、2008年現在の地名に置き換えて記述している。)学園南、学園北、百楽園、登美ヶ丘、鶴舞西町・鶴舞東町、学園大和町、千代ヶ丘、西登美ヶ丘、東登美ヶ丘、中登美ヶ丘、南登美ヶ丘、藤ノ木台、中山町西、学園前緑ヶ丘、朝日町、松陽台、学園中、北登美ヶ丘学園前のある奈良盆地西端の丘陵地帯は、西から東へ、主脈の生駒山地、矢田丘陵、そして西ノ京丘陵と続く。生駒山地は海抜平均400m、矢田丘陵は海抜200-300m前後、一番東の西ノ京丘陵は海抜100m前後で、奈良盆地へ至る。学園前はこの丘陵地帯のうち、西ノ京丘陵に所在する。西ノ京丘陵の東側には平城京の西の堀川と呼ばれた秋篠川が南北に流れ、西側には聖徳太子の時代、富の小川と呼ばれた富雄川が南北に谷を形成している。西ノ京丘陵は秋篠川と富雄川に挟まれ、南北に細長い形をしている。北方の京都府南部付近が一番東西に幅広く丘陵が広がっており、奈良市に入ると幅4km程度、南下するほど幅が狭くなり、最終的には幅1km程度で郡山城付近に達している。丘陵の南北の全長は約18kmである。学園前はこの全長約18kmのうち、北部から中央部にわたる東西幅約2km、南北約8kmの細長い場所に住宅地を形成している。学園前の最高地は北部北登美ヶ丘や真弓付近で約180m前後である。学園前駅付近では150m、南部では100m位である。西ノ京丘陵の分水嶺は丘陵の西側に片寄っており、分水嶺より西側では分水嶺から富雄川まで500mくらいの距離で急斜面を形成している。一方、分水嶺より東側は緩やかな斜面になっており、分水嶺から秋篠川まで2kmに達する箇所がある。分水嶺から東側では秋篠川方向に小川が流れ、侵食谷を形成している。西ノ京丘陵ではこれら侵食谷に水田が形成された。これら侵食谷は奈良盆地周辺の特徴にもれず水源地が浅いため水不足になることが多く、不足分を補うための溜池が各地に構築されている(後述)。近鉄不動産の社長であった泉市郎はこの東側の緩やかな斜面を「住宅地にとって理想的な地形」と評している。学園前のある西ノ京丘陵の地層は更新世にできた砂礫層を主とし、一部粘土層となっている。この地層は山麓が砂礫層で中央部が花崗岩である矢田丘陵、花崗岩や斑糲岩でできた生駒山地よりも侵食されやすい。生駒山地、矢田丘陵、西ノ京丘陵のうち西ノ京丘陵が一番低い丘陵となっているのは一番侵食されやすかったからである。やわらかい砂礫層は宅地造成に適しており、地形だけでなく地層も住宅地にとって好条件であった。また、学園前の東南部には他の地域と比較して粘土層が多く挟まれている地域がある。この地域は赤膚山と呼ばれ、粘土層から産出される粘土を用いて赤膚焼が製造されている。学園前は奈良盆地と同じく内陸性気候である。奈良、大和郡山、生駒市高山の気象観測所の観測資料から概観すると、気温は年平均13℃前後、夏と冬との気温の差が大きい内陸性気候を示す。冬はやや底冷えする。風向は北西の風が多く、冬の乾燥した季節風が強い。この風を「生駒颪」と呼ぶ。この生駒颪の影響で奈良地方気象台のある奈良市中部に比べ生駒山に気候が近く、標高に対する気温減率に反する。冬季は昼間に生駒颪が吹き、朝晩に無風なため放射冷却が奈良盆地より強く、結果的に奈良地方気象台のある奈良市街地に比べて2~3℃気温が低くなる。最寒月の平均気温は1.5℃。(奈良が3.8℃、生駒山頂が0.8℃)夏季は奈良盆地と同じく気温は高いが、夜間にやや肌寒くなる。降水量は年平均総量1450mmくらいで、日本の平均よりも少ないほうである。降水量が少ない影響で奈良盆地やその周辺では乾燥しやすく、また大きな河川が存在しないため水不足に悩むことが多かった。宅地開発以前は灌漑用水の不足、宅地開発後は上水の不足に悩んだ。奈良の水不足を表現した「大和豊作米喰わず」ということわざが伝わる。大和国が水に恵まれ豊作になると他の地域では雨が多すぎて凶作になり、米の値段が上がって庶民は米が食べられなくなるという意味である。学園前は奈良県植物地理区のうち奈良北部植物区-生駒金剛植物区-西ノ京丘陵区に属する。西ノ京丘陵区は砂礫層を主とするため植物の生育に適しておらず、アカマツ林や雑木林を主とする植物区である。特に学園前には松林が広がっており、開発前から開発初期にかけて、学園前周辺ではアカマツ林でのマツタケ狩りが観光資源となっていた。他にマツを切り出して炭にするための炭焼窯が駅の北側に存在したという。また、2008年現在「学園赤松町(旧富雄町大字二名小字赤松)」という地名が残っている。社寺にはアラカシ、シラカシ、ヤブニッケイ、ヤブツバキ、ネズミモチなどの暖地性常緑広葉樹による林が構成される。雑木林にはクヌギ、コナラのほか、コバノミツバツツジ、シャシャンボ、ヒサカキ、マルバハギ、ネザサなどが見られる。登美ケ丘高等学校、登美ケ丘北中学校の校章は所在地周辺に成育していたツツジ、コバノミツバツツジをモチーフとしている。学園前には大規模な河川は存在しないが、侵食谷による小さな河川がいくつか存在する。また、侵食谷による河川を堰き止めた大型の溜池がいくつか残っている。一覧を以下に示す。学園前という地域名の由来として通説になっているのは帝塚山学園の最寄であったからという説である。1941年、富雄駅 - 菖蒲池駅間に帝塚山中学校が開校し、翌1942年、学園前駅が開設された。人家などのランドマークがない場所に学園だけが開発されたため「学園前」が地域名の固有名詞となったとされる。実際に、近鉄電車に乗ると、学園前駅への車内到着前アナウンスで、「学園前、学園前、帝塚山学園前」とアナウンスされるのを聞くことができる。異説として、高橋誠一が奈良大学名誉教授の野崎清孝から教示された説がある。野崎清孝によると、学園前の地名の由来は戦前に計画されたものの実現しなかった慶應義塾大学の分校計画にまで遡れるとしている。慶應義塾大学の分校計画話が流布していたのは事実で、箕面有馬電軌は慶應義塾大学を誘致するため1918年(大正7年)ごろ豊中村に用地を求めている。学園前の宅地開発は国や自治体のニュータウン計画に沿った開発ではなく、民間主導で進められた開発であった。1950年に近鉄が学園都市を目指して学園前南地区の開発をはじめた。その後、近鉄の計画に参加した住宅都市整備公団、奈良市住宅協会や、多数のデベロッパー(大和ネオポリス開発、恒和興業、日生不動産、野村不動産、住友不動産、伊藤忠不動産、東急土地開発、殖産住宅など)により、年次ごとにブロック単位の開発が進められ、丘陵地の開発の手は駅を中心に南北へ延伸していった。民間主導によるブロック単位の開発を進めることで、学園前には10万人規模の街ができあがった。しかし、街がブロックの断片的な積み重ねでしかない状態を生み出す弊害が生じ、各ブロックごとに街路の方位や街区が異なる、ブロック間のつなぎ部分で交通体系上の問題が生じる等の課題が現れている。交通体系上の問題は交通渋滞を引き起こし、学園前が当初目指した「良好な住環境を持つ学園都市」とは異なる発展を遂げた。学園前では関西電力が電気の供給を行っており、関西電力奈良支店奈良営業所が管轄している。2002年現在、学園前周辺には一次変電所として新生駒変電所がある。新生駒変電所には500kVの送電線が4系統、275kVの送電線が2系統、154kVの送電線が3系統接続されている。500kV級の送電線のうち北河内線は西京都変電所に接続される大飯幹線などを経て、大飯発電所をはじめとする若狭湾周辺の原子力発電所に繋がる。2005年12月22日、雪害のため大飯幹線、大飯第二幹線の両送電線からの送電が停止し、近畿地方の約70万世帯が停電した際には、学園前を含む、生駒市、平群町、東大阪市、木津町、加茂町などで停電が発生している。学園前に電気がやってきたのは1918年ごろである。1913年、大阪電気軌道は鉄道事業開業に先立ち電灯事業を開始した。1918年、大阪電気軌道は常用出力 1300kW の放出火力発電所を持ち、大阪市から 160kW を受電しながら、現在の学園前を含む生駒郡に電気を供給していた。しかし、大阪電気軌道は1930年、1938年には自力での発電を行わなくなり、全ての電力を受電に頼るようになっている。1931年の統計では、大阪電気軌道の電気供給事業は宇治川電気よりの受電が半分以上、他に大同電力、日本電力、合同電気からの受電で成り立っていた。学園前を含む地域への大阪電気軌道→関西急行鉄道による電気供給は1942年まで続いた。1941年に公布された配電統制令に従い、1942年に関西急行鉄道を含む関西大手電気供給事業会社14社は関西配電、現在の関西電力に統合され、現在に至る。学園前では大阪瓦斯が天然ガス 13A を供給している。2005年現在、学園前は大阪瓦斯の区分で北東部地区に属する。学園北一丁目には大阪瓦斯の奈良事業所が存在する。奈良事業所は1963年に学園前へ移転した大阪瓦斯奈良営業所を元とする。奈良営業所は1910年に設立された奈良ガスが大阪瓦斯と合併することになった1945年に設置された営業所である。学園前を縦断する形で近畿幹線第1東部ラインとよばれる高圧幹線が敷設されている。近畿幹線第1東部ラインは1967年に建設が開始された大阪瓦斯初の高圧幹線である。大阪東部、奈良地区で行われていた 6C によるガス供給を天然ガス 13A に移行するため、また、供給末端である京都、滋賀への大量のガスを輸送するために建設された。近畿幹線第一東部ラインは泉北工場を基点とし、堺市、藤井寺市、大和郡山市、奈良市を経て枚方供給所に至る。総延長は 79km、管径は 600mm、最高圧力は 2.5MPa である。ガス管には API5LX42 と呼ばれるアメリカ石油協会ハイテストラインパイプ規格の管を用いている。奈良地区での建設反対運動を説得の上、1972年に完成した。1977年には泉北工場に泉北第二工場を増設している。学園前では1970年から1972年にかけて高圧幹線敷設を問題視し、大阪瓦斯と交渉を行ったと記録されている。上水の不足としては1965年に学園前の北部周辺で大規模な断水が続き、大問題となった。富雄井戸(現廃止)、奈良市東部の須川ダム、大渕幹線、藤ノ木貯水池の完成により、1970年ごろには上水の不足は解消している奈良市の上水道緊急時相互利用協定学園前の下水道は奈良市域、生駒市域とも最終的に県営下水道の大和側上流流域下水道第一処理区に接続されている。ただし、分水嶺を越えて淀川水系の流域に属する鹿ノ台は生駒市の単独公共下水道が整備されている。大和川上流流域下水道第一処理区は大和川右岸の下水を処理し、大和川の水質を改善するため1970年に事業が開始された流域下水道である。奈良県で初めての流域下水道事業であった。供用開始は1974年である。学園前の下水は富雄川幹線(管径1800-1100mm, 延長約14km)をとおり、近鉄橿原線ファミリー公園前駅西側の終末処理場(浄化センター)で処理され、大和川に放流される。鉄道では、JR西日本が収める地域は無く、専ら近鉄が担っている。学園前の開発とともに発展したのがバス路線である。学園前近辺は丘陵地帯のため発達している。学園前駅前には近商ストアと名店街(ここでは専門店街を指す)で構成されたショッピングセンター、「パラディ」がある。2008年現在、1984年にオープンした「パラディI」、1991年にオープンした「パラディII」から構成される。パラディの前身は学園前初の大規模小売店舗「学園前ショッピングセンター」である。学園前ショッピングセンターは学園前駅北側へ1960年に設置された学園前第一ショッピングセンター、第一ショッピングセンターに隣接して1963年に設置された学園前第二ショッピングセンターから構成されていた。1960年代当時の学園前第一ショッピングセンターは全国でも珍しい円形の建物であり、同じく円形の帝塚山学園の校舎とともに長らく学園前のランドマークとなっていた。開店初期は、学園前第一ショッピングセンターに近商ストア、近鉄パーラーが入居し、第一・第二ショッピングセンター両方に名店街が入居していた。学園前第一ショッピングセンターに入居した近商ストアは近商ストアにおける第一号スーパーマーケットであり、日本で初めて生鮮食料品にセルフサービスを導入したスーパーとして、業界や買い物客からの注目を集めた。1970年代には近商ストアが第二ショッピングセンターに移転し、近鉄パーラーが北京料理百楽に業態変更されるなどの改装が行われている。1984年、学園前ショッピングセンターの北側にショッピングセンター新館(現、パラディI)がオープンした。学園前第一・第二ショッピングセンターはショッピングセンター新館オープン直後に、学園前駅北口拡充工事のため取り壊された。跡地には奈良交通バスセンターとタクシーのりばなどへ通じる道路、そして1991年にパラディIIが開店し現在に至る。1970年代後半、大手スーパは学園前周辺への出店を目論むようになっていた。1982年の新聞記事には「みどり台ショッピングセンター」「中山町パークサイドセンター」「ショッピングバザール富雄」の出店が計画されていると記述されている。これら出店計画に対して交通渋滞による住環境の破壊や地元無視の一方的な出店に対して出店反対運動が起こり、「みどり台ショッピングセンター」は訴訟沙汰に、「中山町パークサイドセンター」は商工会議所の指導により売り場面積を計画の48%に縮小することになった。結局、「みどり台ショッピングセンター」はイズミヤ学園前店とともに1983年開店、「ショッピングバザール富雄」はユニード(現イオン)富雄店とともに同じく1983年開店、「中山町パークサイドセンター」はサティ学園前(後に学園前サティに名称変更)として1984年に開店している。学園前サティは当時のニチイが「サティ」ブランドで初めて出店した店舗であったが、その後のマイカル(2003年に再建するもその8年後にイオンリテールに吸収合併され消滅)の経営破綻の際、不採算店舗に指定され、2001年に閉店した。※2009年現在、学園前にはビジネスホテルが存在しない。古代、大和国北西部は登美郷と呼ばれた。法隆寺のある斑鳩や平城京から比較的近いため、登美郷には要人の関わったとされる伝説が残っている。聖徳太子が亡くなった際、三杖大夫は以下のような和歌を残したと伝わる。この「富の小川」は現在の富雄川を指すと考えられている。鵤の富の小川の絶えばこそわが大君の御名忘られめ押熊町の北方、京都府相楽郡精華町乾谷には平城京造営の際に使用されたと推定される瓦窯跡が見つかっている。また、奈良市と精華町との境にある「石のカラト古墳」からは8世紀ごろの金銀の埋葬品が発掘されている。聖武天皇は富雄川のある土地を訪れた際、水碓(みずからうす、水車のこと)を用いて農民が精米しているのを見かけ、この土地に「三碓の里」と名づけたという伝説が残っており、現在の奈良市三碓町の地名の由来とされる。三碓三丁目にある添御縣坐神社(そうのみあがたにいますじんじゃ)は(添上郡・添下郡の)「添」の地を守る神社として建立されたとされ、1383年(永徳3年)建立の本殿(重要文化財)が残っている。1914年に大阪電気軌道奈良線(現在の近鉄奈良線)、上本町六丁目-奈良高天町間が開通し、学園前に相当する地域を電車が横断するようになった。開通当時、奈良市西部には富雄駅と西大寺駅が設置されたのみで、現在の学園前駅、菖蒲池駅は設置されず、この地域は松林の続く、人家のまばらな丘陵地帯のままであった。富雄駅前で券売を委託されたよろず売店にて電車開通の年に誕生した、奈良市立二名小学校の初代校長は当時の富雄や学園前の様子を回想している。学園前駅はまだ設置されておらず、現在の学園前駅の南西には杣木谷(現在の学園前駅南西の池)という小さな村があるのみであった。また、富雄川はホタルが生息できるほど清らかで、富雄や学園前の付近はマツタケ狩りで有名であった。タヌキやキツネが生息し、特にタヌキは近鉄奈良線の富雄川橋梁の付近にまで顔を見せるほどだったという。また、富雄駅は駅長と改札員の2人だけが配置されたのんびりとした雰囲気の駅で、駅員は電車が着くたびに対向式ホームを往復していた。たまに米俵を積むための貨車が引込み線に停車していたという。未開発であったこの地域に目をつけた大阪電気軌道は、臨時扱いで菖蒲池駅を開業し、菖蒲池温泉と呼ばれるレジャー施設を建設した。菖蒲上池、菖蒲下池を利用した遊園地、旅館が併設され、大阪から遊戯客が訪れるようになった。本格的な「街」の建設の端緒になったのは、1941年に大阪電気軌道の誘致により開学した帝塚山中学校である。翌1942年に帝塚山中学校への通学に便宜を図るために学園前駅が設置された。自ら開発前の学園前駅の最寄に住み、学園前駅を初めて管轄した生駒駅長が設置当時の学園前駅とその周辺の様子について回想している。開業当時の学園前駅は2面2線で1線の引込み線が存在した。帝塚山中学校の開学は「街」の建設のきっかけにはなったものの、開学以降しばらくは開発へ向けての具体的な動きは見られなかった。動きが現れるのは戦後に入ってからである。学園前駅からの通勤向けバスが乗り入れる小学校区に属する町の町名と沿革を紹介する。町名の右に書かれた年は旧町から新町を自治体が正式に分置した年を表す。よって、この年は分譲が開始された年とは異なる。例えば、藤ノ木台は1965年に分譲が開始され「藤ノ木台」と通称されていたが、奈良市中町から正式に分置されたのは1988年である。太字は伝統的な大字・小字に相当する地域を継承した町の町名である。
出典:wikipedia
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