バリー・サンダース(Barry David Sanders、1968年7月16日 - )はNFLデトロイト・ライオンズで活躍したランニングバック(RB)。アメリカ合衆国カンザス州ウィチタ出身。小柄ながら華麗なカットバックで活躍した。ウィチタで生まれ育ったサンダースは、地元のウィチタ北高校へ進学する。3年生の途中まではRBでは無かったが、なってからの7試合で1,322ヤードを走り、州選抜にも選ばれた。だが、身体が小さかったため大学のスカウトからは過小評価されていた。奨学金を提示した数少ない大学の中から、彼はオクラホマ州立大学へ進学した。大学での最初の2年間は、全米大学選抜であったサーマン・トーマスの控えとして過ごしたが、トーマスがプロ入りした後、1988年の3年生時には先発RBとなりNCAA記録となる2,628ヤードを走り、39タッチダウンを記録した。これは1試合平均200ヤード以上、300ヤードを走った試合も4試合あり、平均7.6ヤードとなる記録であった。パスキャッチも含めた総獲得ヤード3,249もNCAA記録である。この活躍によりトロイ・エイクマンらをおさえてハイズマン賞を受賞したが、オクラホマ州立大学からは初の受賞者となった。また、彼は受賞決定を遠征中の東京で聞いた。3年終了時の1989年のNFLドラフトでサンダースはデトロイト・ライオンズから1巡目(全体の3番目)で指名され、3日後に契約し入団する。ライオンズは元々ディオン・サンダースを指名する予定であったが、ウェイン・フォンテス()ヘッドコーチがバリー獲得を強く推したのと、天然芝ではバリーは活躍できないであろうという評判が一部であったため、3番目まで残っていたことでライオンズが指名した。ディオンは寒いデトロイトでのプレーを嫌がっており、ドラフト後にも「もし指名されていたら、契約を諦めるようなとてつもない額を要求するつもりだった」と答えていたため、この選択は正解だったと言える。1年目の1989年のシーズンはNFL2位となる1,470ヤード、14タッチダウンを記録し、新人王を獲得した。1990年は16個、1991年には17個とリーグ最多のタッチダウン数を記録。1991年にはランで1,883ヤード、レシーブで283ヤードを獲得し、総獲得ヤードでは2,166ヤードと自身初の2,000攻撃ヤードを記録、最優秀攻撃選手に選ばれた。1991年のプレイオフのダラスカウボーイズ戦では終盤には47ヤードTDランを記録した。続く1995年、1996年も1,500ヤード以上のラッシングを記録、1997年はO・J・シンプソン、エリック・ディッカーソン以来、3人目となる2,053ヤードを走り、レシーブ305ヤードとあわせた総獲得ヤードは2,358を記録、MVPを獲得した。またこのシーズンは14試合連続100ヤードラッシュのNFLタイ記録に並んだ。翌1998年も1,491ヤードを走り、NFL史上初の10年連続1000ヤードラッシャーとなった。ウォルター・ペイトンの通算ラッシングヤード記録である16,726ヤードの更新も見えてきた所であったが、シーズン前には独自のメニューでシーズンに備えるサンダースと、キャンプへの参加を求めたチームとの間で亀裂が生じたころもあり、1999年7月のキャンプ前日に地元ウィチタの新聞社に引退をするとFAXを送った。突然の引退のため批判もおき、2年前に6年3,540万ドルプラス契約ボーナス1,100万ドルで契約したライオンズは契約ボーナスの内、730万ドルの返還を要求したが、サンダースはこれを拒否し裁判となった。結果はサンダースの敗訴となり、550万ドルと利息の支払いを命じられる結果となった。彼は5シーズン1,500ヤード以上を走った史上初の選手であり、そのうち4回は1994年~1997年の4年連続で記録した。50ヤード以上のタッチダウン15回、150ヤードラッシュ以上の試合25試合もNFL記録である。また、通算15,269ラッシングヤードはペイトン、2002年に抜かれたエミット・スミスに次ぐ歴代3位の記録である。2004年にNFL殿堂入りした。クイックネス、視野の広さ、爆発力を持った選手であった。サンダースは物静かな性格で、タッチダウン後に派手なパフォーマンスを行うようなこともしなかった。デトロイトのTV局チャンネル4のキャスターであったローレン夫人と2000年に結婚、4人の子供と共にデトロイト郊外に住んでいる。
出典:wikipedia
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