白瀬 矗(しらせ のぶ、文久元年6月13日(1861年7月20日) - 昭和21年(1946年)9月4日)は、日本の陸軍軍人、南極探検家。最終階級は陸軍輜重兵中尉。幼名は知教(ちきょう)。文久元年(1861年)、出羽国由利郡金浦村(現在の秋田県にかほ市)出身。浄蓮寺の住職、白瀬知道・マキエの長男として生まれた。南極探検以後になって出版した自伝によると、幼年時代の彼は非常にわんぱくで、「狐の尻尾を折る」「狼退治」「千石船を素潜りで潜ろうとして死にかける」「150人と血闘」などを行ったと列挙している。8歳(数え年だと9歳)の頃に、平田篤胤の高弟ともいわれる医師で蘭学者(漢学者とも)の佐々木節斎の寺子屋に入る。佐々木は寺子屋で読み書きソロバンや四書五経を教え、その他にもコロンブスやマゼランの地理探検、そしてジョン・フランクリン隊の遭難(フランクリン遠征)などの話を聞かせた。白瀬は11歳の頃に佐々木より北極の話を聞き、探検家を志すようになる。この時佐々木は、白瀬に対し5つの戒めを教えた。白瀬は18歳頃から守るようになり、生涯この戒めを守り続けたとされる。明治10年(1877年)、母の実家である山形県山形市七日町にある小学校に入学し、明治12年(1879年)3月に卒業する。同年7月に僧侶となるため上京するが、2ヵ月後に軍人を目指し日比谷の陸軍教導団騎兵科に入校。同時に幼名の知教という名を矗に改名した。明治14年(1881年)に教導団を卒業、輜重兵に転科し陸軍輜重兵伍長として仙台に赴任する。翌年、宇都宮で行われた大演習に騎兵として参加し、児玉源太郎と知り合う。明治20年(1887年)には仙台市二日町の海産問屋の娘、やすと結婚。陸軍輜重兵曹長、下副官と昇進し明治26年(1893年)に予備役編入した。明治23年(1890年)、仙台で児玉源太郎と再会し、北極探検の思いを伝えた白瀬だったが、児玉に「書生論的空理空論だ」と断ざれてしまう。しかし児玉はそう断じた上で、「北極探検を志すなら、まず樺太や千島の探検をするように」と薦めた。児玉の助言に従って白瀬は千島探検を志すようになり、明治26年(1893年)、幸田露伴の兄である郡司成忠大尉が率いる千島探検隊(千島報效義会)に加わる。探検隊は千島に到着するまでの間に暴風雨による遭難で19名の死者を出しながらも千島列島に到着。捨子古丹島に9名、幌筵島に1名の隊員を越冬隊として残し、白瀬・郡司ら7名は同年8月31日に最終目的地である占守島に到着、そのまま同島で越冬した。翌明治27年(1894年)の5月、幌延島の一人が壊血病で死亡、さらに6月に占守島へ寄港した軍艦「磐城」からは「捨子古丹島の9名の内4名死亡、5名行方不明」という情報がもたらされる。そして郡司は軍からの強い要請により、「磐城」に乗って帰還することになった。この時、郡司は当初全員を帰還させるつもりであったが、郡司の父である幸田成延が、千島開発を途切れさせないために自分が占守島に残る事を強硬に主張。郡司はこれを翻意させるため、白瀬に成延の代わりとして占守島へ残留することを要望することになる。白瀬も最終的に郡司の帰還を承諾したが、この2年目の越冬は過酷なものとなった。白瀬を含む4人が壊血病に罹り、白瀬以外の3人は死亡。壊血病に罹らなかった2人のうち1人はノイローゼとなり、白瀬も病気による体力の低下から食料の調達が不可能となり、やむなく愛犬を射殺してその肉を食べることで飢えを凌いだほどであった。白瀬らは明治28年(1895年)8月になって救助されたが、過酷な状況に追い込まれたことと、越冬のため日清戦争に従軍できなかったことへの悔やみから、白瀬は郡司親子を恨むようになり、以後郡司と白瀬の仲は極端に悪化する。明治30年(1897年)、後備陸軍輜重兵少尉任官。明治33年(1900年)、国家事業として千島の経営を帝国議会に請願、10万円の予算が通過したが、交付されないので密漁船でアラスカに渡り、6ヶ月間を北緯70度で過ごした。明治37年(1904年)には日露戦争勃発のため、同年6月に召集され第8師団衛生予備廠長となり、10月に出征し明治38年(1905年)1月に黒溝台会戦で右手と胸を負傷、凱旋後の同年11月に陸軍輜重兵中尉に昇官した。明治42年(1909年)、アメリカの探検家・ロバート・ピアリーの北極点踏破のニュースを聞き、傍目で見ていても痛ましいほど失望・落胆する。そこで北極探検を断念して目標を南極点へ変更するが、アーネスト・シャクルトンが南緯88度23分に到達したと知ると白瀬は意気消沈した。さらにイギリス政府がロバート・スコットが南極探検に来年も挑むと発表すると、白瀬は即座に競争を決意した。スコットは1910年にイギリスの王立地理学会から支援を受け、科学調査とともに南極点到達を目標にしていた。当時は南極点を目指す探検隊が他にいないと思われ、スコットが最初に到達するものと考えられていた。明治43年(1910年)、白瀬は南極探検の費用補助を帝国議会に建議(「南極探検ニ要スル経費下付請願」)した。衆議院は満場一致で可決したものの、政府はその成功を危ぶみ3万円の援助を決定するも補助金を支出せず、渡航費用14万円は国民の義援金に依った。政府の対応は冷淡であったが、国民は熱狂的に応援した。船の調達も難航し予算も2万5千円程度だったため、残金も十分ではなかった。最終的には千島探検で険悪の仲となっていた郡司に頭を下げ、積載量が僅かに204トンという木造帆漁船を買い取り、中古の蒸気機関を取り付けるなどの改造を施され、東郷平八郎によって「開南丸」と命名された。極地での輸送力は29頭の犬だった。同年7月5日、神田で南極探検発表演説会を開催、当日中に南極探検後援会が組織され、幹事に三宅雪嶺・押川方義・桜井熊太郎・村上濁浪(本名・俊蔵 。雑誌『成功』を刊行する「成功雑誌社」主幹)・田中舎身・佐々木照山、会長には大隈重信が就任した。同年11月29日、開南丸は芝浦埠頭を出港したが、航海中に殆どの犬が原因不明(のちに寄生虫症と判明)の死を遂げた。さらに、白瀬と書記長の多田恵一、船長の野村直吉と他隊員との間に不和が起こる。明治44年(1911年)2月8日に、ニュージーランドのウェリントン港に入港。物資を積み込んで2月11日に南極に向けて出港したが、すでに南極では夏が終わろうとしており、氷に阻まれて船が立往生する危険が増したため、5月1日にシドニーへ入港した。ここで、資金調達のために多田と野村が帰国したが、後援会内部では村上濁浪が会費を使い込んだという疑惑が起きて内紛が発生。一方、シドニーで滞在していた本隊(野宿で過ごし住民の不安を招いたが、のちに解消)でも内紛が発生しており、隊員による白瀬の毒殺未遂事件が起きたとさえいわれている。その後、探検用の樺太犬を連れてシドニーへ戻った多田を加えた隊は、表面上は和解して再び南極を目指して11月19日に出港。明治45年(1912年)1月16日に南極大陸に上陸し、その地点を「開南湾」と命名、ちょうどこの翌日にスコットが南極点に到達した。同地は上陸、探検に不向きであったため、再び開南丸でロス棚氷・クジラ湾に向かう。クジラ湾内では、南極点初到達から帰還するロアール・アムンセンの探検隊を収容するために来航していたフラム号と遭遇、限られた形ながら接触している。その後クジラ湾より再上陸し、1月20日に極地に向け出発した。この時には南極点到達を断念し、南極の学術調査とともに領土を確保することを目的とした。しかし、探検隊の前進は困難を極め、28日に帰路の食料を考え、南緯80度5分・西経165度37分の地点一帯を「大和雪原(やまとゆきはら・やまとせつげん)」と命名して、隊員全員で万歳三唱、同地には「南極探検同情者芳名簿」を埋め、日章旗を掲げて「日本の領土として占領する」と先占による領有を宣言した(第二次世界大戦の敗戦時に領有主張は放棄。またこの地点は棚氷であり、領有可能な陸地ではないことが後に判明。)。この領有宣言はシャクルトンにならって行われた。白瀬の突進隊数名は上陸地点付近での気象観測、開南丸はロス湾周辺の調査を行い、付近の湾を「大隈湾」「開南湾」と命名した。なお、この地は氷上であり大陸ではない。探検の記録映像『日本南極探検』は東京国立近代美術館フィルムセンターが所蔵しており、展示室のビデオモニターでその一部が鑑賞できる。付近一帯を大和雪原と命名した白瀬隊は、2月4日に南極を離れ、ウェリントン経由で日本に戻ることとなった。いざ南極を離れようとすると海は大荒れとなり、連れてきた樺太犬21頭を置き去りにせざるを得なくなった(そのうち6頭は生還)。このため、参加していた樺太出身のアイヌの隊員2名(山辺安之助と花守信吉)は犬を大事にするアイヌの掟を破ったとして、帰郷後に民族裁判にかけられて有罪を宣告されたと伝えられる。ウェリントンに戻ると、白瀬隊の内紛は修復出来ないほど悪化しており、白瀬と彼に同調するもの四名は、開南丸ではなく貨客船で日本に帰ってきた。他の者は開南丸に乗って6月18日に館山に到着し、19日に横浜へ回航、そして20日に出発地である芝浦へ帰還した。約5万人の市民が開南丸の帰還を歓迎し、夜には早大生を中核とした学生約5,000人が提灯行列を行った。帰国後、後援会が資金を遊興飲食費に当てていたことがわかり、白瀬は4万円(現在の1億5千万円)の借金を背負い、隊員の給料すら支払えなかった。自宅、家財道具、軍服と軍刀を売却して、転居につぐ転居を重ね、実写フィルムを抱えて娘と共に、日本はもちろん台湾、満州、朝鮮半島を講演して回り、20年をかけて渡航の借金の弁済に努めた。南極地域観測隊第一次隊越冬隊長である西堀栄三郎は京都南座で白瀬の南極公演を聞いて、南極探検を志すに至っている。その時、西堀は白瀬が南極探検を志した年齢と同じ11才であった。南極へ出発する当初、日本国中で「小さな漁船で南極へ向かうのは無謀」などと散々な罵声や嘲笑があったものの、白瀬ら全員が帰国した際は日本中が歓喜に沸いた。白瀬も皇太子との謁見や各地での歓迎式典が開かれたほか、学術的資料としても南極の気象や動植物の記録、ペンギンの胃から出てきた140個あまりの石の分類も行われた。昭和11年(1936年)には東京科学博物館(現・国立科学博物館)にて「南極の科学」展が開かれ、白瀬はその講演で出席したほか、同12年(1938年)には国から「大隈湾」「開南湾」命名による感謝状が手渡された。昭和21年(1946年)9月4日、愛知県西加茂郡挙母町(現・豊田市)の、白瀬の次女が間借りしていた魚料理の仕出屋の一室で死去。享年85。死因は腸閉塞であった。床の間にみかん箱が置かれ、その上にカボチャ二つとナス数個、乾きうどん一把が添えられた祭壇を、弔問するものは少なかった。近隣住民のほとんどが、白瀬矗が住んでいるということを知らなかった。白瀬の死後、遺族はその窮状を見かねた浄覚寺の住職が引き取った。奇しくも、後に第1次南極観測隊隊長となる永田武は、白瀬の遺族と同じ浄覚寺に疎開していた。
出典:wikipedia
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