


荒川事件(あらかわじけん)は、1969年のプロ野球ドラフト会議で指名されたアマチュア野球の有力選手・荒川尭のプロ入りを巡って起きた事件。1969年のプロ野球ドラフト会議では、早稲田大学の強打者であった荒川尭が指名候補として注目の存在になっていた。荒川は養父の荒川博が巨人のコーチであること、また東京六大学野球のホームグラウンドである明治神宮野球場を本拠地にしている球団がアトムズ(1970年からヤクルトアトムズ)ということもあり、ドラフト会議の前から「巨人・アトムズ以外お断り」と明言していた。当時のドラフトシステムでは、予備抽選で上位のくじを引いた球団から順番に好きな選手を指名できるシステムになっており、現在のような重複指名による抽選制度も存在しなかったため、他球団が指名した選手は指名できなかった。その結果、巨人は11番目、アトムズは9番目であり、少なくともアトムズに入団するには意中外の8球団から指名されないことが条件であった。1番目指名球団の中日ドラゴンズや2番目指名球団の阪神タイガースは荒川への強行指名をしなかったが、3番目指名球団の大洋ホエールズが荒川は「提示額次第で入団」という情報を得た(結果的にはガセ情報だった)ことで指名を強行した。そのためアトムズや巨人は荒川を指名できなくなった(ちなみにアトムズは仙台商高の捕手である八重樫幸雄を、巨人は早稲田大学の投手であった小坂敏彦をそれぞれ1位指名した)。これが荒川の野球人生の暗転に至るきっかけとなった。荒川は即刻入団拒否を表明、交渉も拒否した。これがきっかけで荒川は大洋ファンと思しき人物から嫌がらせを受け、ついには後述の傷害事件に至る。しかしそれでも荒川は意思を曲げず、1970年2月アメリカに野球留学して次のドラフトを待つ。この間大洋は現地法人を通して荒川との接触を続け、巨人以外の球団も荒川を指名するとの情報が流れていた。その後大洋は巨人、ヤクルトと極秘に交渉し、一旦大洋に入団した後意中のチームに入団する三角トレードを提案する。巨人とは条件面で折り合わず断念。ヤクルトは荒川を懐柔するために早稲田OBの三原脩を監督に迎える準備を進め、三原は就任の条件として荒川の獲得を挙げていた。同年10月7日、荒川は大洋と正式契約する。ドラフト指名選手との交渉期限が切れる2日前だった。入団発表の席に荒川の姿はなく、森球団代表とスカウト部長のみが出席。同日、ヤクルトからトレードが申し込まれ、12月26日にヤクルトへの移籍が発表される。当初は若手投手との交換トレードが計画されていたが、選手の心情を考慮して金銭トレードとなった。当初「大洋のユニホームを着ることはない」とホエールズの森茂雄代表は話していたが、鈴木龍二セントラル・リーグ会長は「練習に参加させるように」と大洋に要請。そのため、荒川は大洋入団直後に練習に参加しているので、一応大洋のユニフォームにも袖を通しており、写真も残っている。背番号は大洋・ヤクルト通じて3番だった。とりあえず荒川は念願を叶えたのだが「ドラフト破り」ということで世間から非難され、セントラル・リーグ事務局からは1ヶ月間の公式戦出場停止というペナルティを課された。荒川のプロ入りをめぐるトラブルを機に野球協約が改定され、新人選手の初年度の移籍が禁止されるようになった(ただし、1979年度より、この規定は「開幕前の移籍禁止」に緩和された。江川事件の江川卓は最終的にこの規定によって開幕後に新人で巨人への移籍という形を取っている)。1978年2月16日、参議院法務委員会でプロ野球ドラフト会議と職業選択の自由の関係について、当事者として参考人として呼ばれた。大洋からのドラフト指名に対して当初は入団拒否した荒川は、脅迫電話や血のりの手紙・カミソリ入りの封筒が連日投げ込まれるなど嫌がらせをうけた。だが、荒川家は本気では取り合わず、大洋球団も警備を付けるなどの対策を講じなかった。ドラフト会議からおよそ2カ月が過ぎた1970年1月5日夜、荒川は自宅付近で犬の散歩をさせていたところ、熱狂的な大洋ファンと目される二人組の暴漢に襲われた。棍棒状の凶器で殴打された荒川は緊急入院を余儀なくされ、後頭部および左手中指に亀裂骨折を負い全治2週間と診断された。暴漢に襲われ頭部を強打した後遺症からか、荒川の左目の視力は徐々に低下してゆき、プロ3年目以降成績は尻すぼみとなる。当時最新の視力矯正手術なども受けたが回復する事なく、左打者に転向したが、結局1975年シーズン途中で現役引退。実働シーズンはわずか5年、まだ28歳の若さであった。なお、傷害の実行犯は見つからないまま公訴時効を迎え、現在でも誰の犯行かは不明のままである。
出典:wikipedia
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