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南洲翁遺訓

『南洲翁遺訓』(なんしゅうおういくん)は西郷隆盛の遺訓集である。遺訓は41条、追加の2条、その他の問答と補遺から成る。「西郷南洲翁遺訓」、「西郷南洲遺訓」、「大西郷遺訓」などとも呼ばれる。『南洲翁遺訓』は旧出羽庄内藩の関係者が西郷から聞いた話をまとめたものである。1867年(慶応3年)12月9日の王政復古の大号令の後に、西郷は益満休之助や伊牟田尚平を江戸に派遣し、芝三田の薩摩藩邸に浪人を集めて、江戸市中の治安を攪乱させた。庄内藩は、江戸の警備組織新徴組を預かり、江戸市中の警備を担当していた。そのため、薩摩藩邸の浪人と庄内藩士は対立し、浪人が庄内藩邸に発砲する事件が発生した。そして、同年12月25日に庄内藩を中心とする旧幕府側が薩摩藩邸を焼き討ちする事件に発展した。1868年(慶応4年)5月15日、西郷が率いる薩軍は上野戦争で彰義隊を破ったが、会津藩は抗戦を続け、東北諸藩は奥羽越列藩同盟を結んだ。同年8月23日に東北戦争で官軍は鶴ヶ城の攻撃を開始し、9月22日に会津藩は降伏した。一方、庄内藩は官軍を撃退したが、奥羽越列藩同盟の崩壊に伴い戦闘を続けられなくなり、9月26日に降伏した。庄内藩士は、降伏に伴い、薩摩藩邸焼き討ち事件や東北戦争における戦闘を咎められて厳しい処分が下されると予想していたが、予想外に寛大な処置が施された。この寛大な処置は、西郷の指示によるものであったことが伝わると、西郷の名声は庄内に広まった。1870年(明治3年)8月、旧庄内藩主の酒井忠篤は犬塚盛巍と長沢惟和を鹿児島に派遣し、旧薩摩藩主の島津忠義と西郷に書簡を送った。同年11月7日、酒井忠篤は旧藩士などから成る78名を従えて、鹿児島に入った。また、出羽松山藩の15人も、忠篤一行とは別に鹿児島に入った。合計93名は4ヶ月滞在して、軍事教練を受けた。西郷は、1873年(明治6年)の征韓論争に破れ下野し、同年11月10日に鹿児島に帰った。旧庄内藩士の酒井了恒は伊藤孝継や栗田元輔とともに鹿児島を訪れて、西郷から征韓論に関する話を聞いた。また、赤沢経言や三矢藤太郎も鹿児島を訪れて、西郷から話を聞いている。1875年(明治8年)5月には、庄内から菅実秀や石川静正等8人が鹿児島を訪れた。。1889年(明治22年)2月11日、大日本帝国憲法が公布されると、西南戦争で剥奪された官位が西郷に戻され名誉が回復された。この機会に、上野公園に西郷の銅像が立てられることになり、酒井忠篤が発起人の1人となった。菅実秀は赤沢経言や三矢藤太郎に命じて、西郷生前の言葉や教えを集めて遺訓を発行することになった。1890年(明治23年)1月18日に、山形県の三矢藤太郎を編輯兼発行人とし、東京の小林真太郎を印刷人とし、秀英社で印刷された本である。『南洲翁遺訓』と題して、約1000部が発行された。1896年(明治29年)に佐賀の片淵琢が東京で『西郷南洲先生遺訓』と題して発行した本である。大阪大学名誉教授の猪飼隆明は南洲翁遺訓を次のような六つのグループに分類している。※ただし、一九条はどこにも分類されていないので、第5グループに入れた。以下、原著より原文を引用する。先頭の数字は通し番号である。原文の現代語訳および解説は参考文献を参照。恢宏其志気者。人之患。莫大乎自私自吝。安於卑俗。而不以古人自期。夫天下非誠不動。非才不治。誠之至者。其動也速。才之周者。其治也広。才与誠合。然後事可成。文非鉛槧也。必有処事之才。武非剣楯也。必有料敵之智。才智之所在一焉而巳。山形県致道博物館が三谷本の初版本を所蔵している。三谷本の初版本には、巻頭に副島種臣が記した序文と、赤沢経言が起草し菅実秀が検討して作成した序文と跋文が掲載されている。

出典:wikipedia

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