


フラウンホーファー研究機構(独: Fraunhofer-Gesellschaft)は、ドイツ全土に67の研究所・研究ユニットを持つ欧州最大の応用研究機関。各研究所は科学の様々な応用を研究テーマとしている(マックス・プランク研究所は基礎研究中心である点が異なる)。23,000人以上のスタッフを抱え、年間予算総額は20億ユーロ超である。そのうち年間研究予算は17億ユーロ。その30%弱はドイツの各連邦州(およびそれを経由して連邦政府)から拠出されているが、残り70%以上は企業からの委託や公的財源の研究プロジェクトによる。名称の由来は、科学者であり技術者であり起業家でもあったヨゼフ・フォン・フラウンホーファーに由来する。本部はドイツ・ミュンヘンに置かれている。アメリカ合衆国に6つの研究センターを持ち、アジアに3つの研究センターがある。日本にはフラウンホーファー日本代表部がある。なお正式名称は "Fraunhofer-Gesellschaft zur Förderung der angewandten Forschung e. V"(直訳すると「応用研究推進のためのフラウンホーファー協会」)である。例えば、以下のようなプロジェクトが行われたことがある。1973年以降、同協会はフラウンホーファーモデルと呼ばれるものによって継続的な成長を成し遂げてきた。このモデルでは、協会が産業界や政府の特定プロジェクトとの契約を通して約60%の収入を得る。残り40%は 9:1 の比率で連邦政府と州政府からの予算で賄い、それを予備的研究にあてる。従って、収入を増やすにはより多くの契約を獲得しなくてはならない。このモデルは協会に適用されるだけでなく、個々の研究所にも適用される。これにより、フラウンホーファー協会が応用研究の分野でリーダーになるという戦略的方向性を明確化し、同時に研究の優先順位を柔軟かつ自律的にし、起業家的な取り組みを奨励することにつながっている。以下のような研究所がある。フラウンホーファー協会は1949年3月26日、産業界、学界、バイエルン州政府、ドイツ政府の代表者らによってミュンヘンで創設された。1952年、ドイツ経済技術省はフラウンホーファー協会を、ドイツ研究協会(DFG)およびマックス・プランク研究所に続く第三の(大学以外の)研究機関として認めた。同協会が応用研究中心で運営されていることの是非については、ドイツ国内でも長い間議論されている。1954年、最初の研究施設が完成。1956年までドイツ防衛省の協力のもとに施設の拡充が行われた。1959年には、9つの研究所を持ち、135人の研究者/技術者を抱え、予算規模は360万ドイツマルクとなっていた。1965年には、応用研究のための組織として認識されるようになった。1968年、軍事研究における役割が批判されることになった。1969年には、1,200人以上を抱え、19の研究所を持つようになった。予算規模は3300万ドイツマルク。この年に今後の計画に関する委員会が設立され、後にフラウンホーファーモデルと呼ばれるようになる運営モデルが作られた。このモデルは1973年に連邦政府によって承認された。1977年、政治的な管轄は、防衛大臣と教育研究大臣が共有する形となった。1984年には、3,500人を抱え、33の研究所を持ち、予算規模は3億6000万ドイツマルクとなった。1988年には防衛関係の研究は全体の約10%にまで低下した。1989年には、6,400人を抱え、37の研究所を持ち、予算規模は7億ドイツマルクになっている。1991年のドイツ統一にあたって、フラウンホーファー協会は旧東ドイツのいくつかの研究機関を統合し、既存の研究所の支所という形にした。1993年には、予算規模が10億ドイツマルクを超えた。2000年から2001年にかけて、ドイツ教育研究省の指導により、フラウンホーファー協会は GMD (Gesellschaft für Mathematik und Datenverarbeitung -- Society for Mathematics and Information technology) のIT研究センターや研究所を統合した。また、このころIIS(集積回路研究所)でMP3が開発された。
出典:wikipedia
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