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鵜飼吉左衛門

鵜飼 吉左衛門(うがい きちざえもん)は、江戸時代末期(幕末)の水戸藩士。遠祖は甲賀流忍者といわれ、室町幕府9代将軍・足利義尚を斃した「鈎の陣」の甲賀二十一騎に鵜飼駿河守の名がある。また、徳川家康の三河国平定にも功があった。水戸徳川家には,二代目藩主・徳川光圀の代に垂加神道学者として鵜飼錬斎・鵜飼称斎兄弟が登用されてともに彰考館に入り、錬斎は同館総裁を務め、以後代々『大日本史』編纂事業に携わった。寛政10年(1798年)、尾張国中島郡中島村(現,一宮市)頓聴寺住職・鵜飼真教の次男として生まれ、後に水戸藩士で叔父の鵜飼知盛の養子になった。幼名は菊三郎。水戸藩主・徳川斉昭に仕え、『大日本史』編纂に従事する。湊川に楠木正成を称えた「唖々忠臣楠公」の碑を建立。弘化元年(1844年)、幕命により斉昭に隠居・謹慎命令が下ると、京都にてその復帰運動に奔走したために処罰される。嘉永6年(1853年)、斉昭の幕政参与に伴い吉左衛門も藩政に復帰し、安政の大地震で当時の水戸藩の京都留守居役だった石川六郎の被災死を受け、石川に替わって同役を務め、京都近辺の寺社を巡り史料の収集に努める傍ら、尊王攘夷運動に励む。将軍継嗣問題では一橋派につき、日米修好通商条約締結勅許打診に反対して廷臣八十八卿列参事件を画策するなど、徳川慶喜の擁立を図る。時の孝明天皇からの戊午の密勅降下に際しては、持病の悪化のため、それを子の幸吉に託して江戸小石川の水戸藩邸にあった徳川慶篤のもとに運ばせた。後に、幕府を介さず直接水戸藩に下されたこの密勅の形式が問題となり、大老・井伊直弼から京都方面の勤皇派弾圧の密命(表向きは安政五カ国条約勅許の裁下奏請)を受けた老中・間部詮勝の上京後、井伊直弼の懐刀・長野主膳からの事前の入れ知恵もあり、幸吉とともに即日捕縛される。捕縛直前に飛脚の元締め・大黒屋に預けた水戸藩家老・安島帯刀宛の密書が長野主膳に押収され(原書はみつかっていない。長野から井伊へ宛てた書簡に記載があるのみ)、西郷隆盛・伊地知正治らによる京都・伏見における薩摩藩兵250人の挙兵・彦根城襲撃計画が明らかとなり、朝廷弾圧・志士捕縛の引き鉄となる。捕縛後、吉左衛門は六角獄舎に繋がれ、石抱きの刑等の苛烈な拷問を受け、歩行もままならぬ状態であったという。同年12月5日に江戸送致後、三田藩預かりとなり、安政6年(1859年)10月27日未明に安島帯刀や水戸藩奥右筆・茅根伊予之介、子の幸吉と共に伝馬町の獄舎内にて死罪に処された。享年62。なお、死に臨み、吉左衛門は幕吏に「一死もとより覚悟の上。唯心に掛かるは主君(徳川斉昭)の安危なり」と尋ね、恙無きやを知ると、従容として死に就いたという。長子・亀吉は早世。三男・喜三郎(知彰)、四男・伝四郎(信敏)も連座するも、捕縛当時、ともに幼少のため中追放となり、その後土佐藩士・平井収二郎の周旋もあり和宮降嫁時に恩赦となった。鵜飼父子の遺骸は、その家僕が乞食に変装して刑場に忍び込み、郷里に持ち帰ったと伝えられている。死後、父子ともに和宮降嫁時に赦免となる。墓所は茨城県水戸市・常磐共有墓地、東京都荒川区南千住・回向院、京都市・長楽寺、同市・徳円寺。位階は贈従四位。靖国神社合祀。

出典:wikipedia

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