大衆演劇(たいしゅうえんげき)とは、日本の演劇におけるジャンルの一つ。一般大衆を観客とする庶民的な演劇のこと。一般的には「旅役者」と呼ばれる劇団に当たる。確立された定義はないとされるが、専門誌『演劇グラフ』にはおおよそ下記のような要件が定義されている。数名から数十名の規模で形成された劇団によってそれぞれ運営・実施される。劇団の主催者は座長(ざちょう)とよばれ、世襲されることが多い。しかし、他の伝統芸能のような、確立した特定の家元・流派・名跡は存在しない。一座の多くが、ごく近しい血縁者で構成されている。1歳から3歳ほどの幼い頃に初舞台を踏み、楽屋を我が家とし、一座の中で成長していく。やがて役者として座長を継ぎ、または一役者として舞台を踏み、あるいは独り立ちする。時には血縁者の座長を盛りたてたりと、その身内の絆は強い。大衆演劇の舞台は、芝居とショーの二部から三部構成で演じられる。東京、大阪、九州では芸風が全く異なっており、例えば東京で受けたものが東京以外で受け入れられるとは限らない。公演終了後には劇団員が総出で退出する観客を見送る送り出しが行われ、観客と演者との一体感を醸成するのに役立っている。ショーのとき、贔屓のお客さんから「お花」と呼ばれるご祝儀(一万円札や五千円札をつなぎ合わせてレイにして役者の首にかけたり、扇状にして胸元にさしたりする)を貰うことがある。女形に注目されがちであるが、女性座長や女優もおり、舞台を彩っている。各地を巡業していた旅役者の流れを汲む。数多く存在した旅役者の一座のうち、江戸においては中村座・市村座・河原崎座のみ、官許され常設の芝居小屋を持つことができた。この江戸三座を「大芝居」と呼ぶ。これに対し、寺社境内などで演じられたものを「小芝居」と呼ぶ。江戸の他、大阪・京都でも上記のような大芝居、小芝居の区別が生じた。大芝居が幕府の保護あるいは監視のもと、伝統と格式を追求し練り上げていくのに対し、小芝居は伝統や格式よりも、より派手に見世物的に演じることを主体とし、庶民に娯楽を提供する傾向にあった。大芝居、小芝居とは別に、江戸・京都・大阪の3都市以外で全国を回る旅役者も変らず存在していた。これらは「旅芝居」と呼ばれた。開国した日本は「諸外国に誇れる総合芸術を」と大芝居に目を向け、また大芝居側もより堅実で高度な芝居をしたいという、双方の利害が一致し、大芝居の近代化が図られた。こうして、明治初年から20年代にかけて演劇改良運動が起こる。大芝居は明治政府と松竹により保護、「国劇」と認知され、大芝居とその他亜流(小芝居、旅芝居)と明確な線引きが生まれることになる。大芝居は「大歌舞伎」、小芝居は「中歌舞伎」という呼び名がここで生まれた。大歌舞伎はこの後、今日の「歌舞伎」へと進化していく。演劇改良運動は、その急激な改革に反発、あるいは零れ落ちた大芝居の役者達が、小芝居・旅芝居へと流れて新たな一座を立ち上げるなど、小芝居・旅芝居側にも余震が及ぶことになった。また、文明開化によって欧米の演劇文化に触れたこともあり、歌舞伎に対抗して新たな芝居をと新派劇・新劇という大きな演劇運動が起こった。新劇と呼ばれるもののうち、澤田正二郎の劇団「新国劇」は大衆演劇の直接の起源の一つとされている。1919年発表の『月形半平太』・『国定忠治』によって確立した剣劇は、今まで小芝居・旅芝居で演じられてきた歌舞伎の形式・形を踏まえつつも殺陣を用いた「チャンバラ時代劇」であった。そして1928年、大衆作家と呼ばれた長谷川伸が新国劇に書き下ろした『沓掛時次郎』・『股旅草鞋』によって股旅物が確立する。この剣劇・股旅物を主として演じる小芝居・旅芝居の役者・劇団が、「大衆演劇」と呼ばれ始めるはこの頃からである。東京で剣劇が大衆に支持され大正末期から一角の繁栄を築いていた一方、大阪では「節劇」と呼ばれる浪花節が流行していた。テレビの登場によりその人気は下火となった。これに危機感を覚え、東京・大阪・福岡の各劇団が相互扶助の為に3つの団体を発足。即ち、「"東京大衆演劇劇場協会"」・「"関西大衆演劇親交会"」・「"九州演劇協会"」の3つである。「下町の玉三郎」こと梅沢劇団梅沢富美男の登場により、冷えていた大衆演劇がマスコミの注目を浴び、再び世間に広く知られるようになった。大衆演劇の公演場所は劇場とセンターのふたつに大別される。
出典:wikipedia
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