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レッド・ホット・チリ・ペッパーズ

レッド・ホット・チリ・ペッパーズ () は、アメリカ合衆国カリフォルニア州出身のロックバンド。主な略称は「RHCP」や「The Chili Peppers」、日本でのみ「レッチリ」など。2012年にロックの殿堂入り。2016年現在、オリジナル・アルバムを10枚、ベスト・アルバムを2枚発表している。メンバーがそれまでに所属していたバンドには、チェイン・リアクション (Chain Reaction) やアンセム (Anthym) などがある。1983年 - アンソニー・キーディスとフリー、ヒレル・スロヴァク、ジャック・アイアンズによりバンド結成。1984年 - Capitol/EMIと契約し、デビューアルバム『レッド・ホット・チリ・ペッパーズ』をリリース。プロデューサーにギャング・オブ・フォーのアンディ・ギルを迎えて作成されるが、この作品には、ヒレルとジャックは参加していない。1985年 - ヒレルが復帰して、アルバム『フリーキー・スタイリー』をリリース。プロデューサーに、ジョージ・クリントンを迎えて作成された。1987年 - アルバム『ジ・アップリフト・モフォ・パーティ・プラン』をリリース。前作で復帰したヒレルに続き、ジャックもバンド復帰して制作された作品で、最初で最後のオリジナルフルメンバーによるアルバムになった。このアルバムから、初めて日本盤が発売される。1988年 - ヒレルが、ヘロインの摂取過多により死亡。これに伴い、ジャックもバンドから脱退してしまう。1989年 - 新メンバーに、ジョン・フルシアンテ、チャド・スミスを迎え、アルバム『母乳』をリリース。このアルバムの裏ジャケットの絵画は、ヒレルが生前に描いたものである。初めてのチャートヒット作品となり、この頃から大会場規模なツアーを行うようになる。1991年 - Capitol/EMIからWarnar Brothers Recordsに移籍し、アルバム『ブラッド・シュガー・セックス・マジック』をリリース。全世界レベルでのブレイク作品となる。現在のプロデューサーであるリック・ルービンを迎えた作品。このアルバムに収録され、シングルカットされた「"Under The Bridge"」で、初の全米1位を獲得。また、同じくシングルカットされた「"Give It Away"」は、グラミー賞のハードロック部門最優秀シングル賞を受賞している。1992年 - 世界ツアーでの来日中、ジョンが突如帰国、脱退してしまう。1995年 - ギタリストにデイヴ・ナヴァロを迎え、アルバム『ワン・ホット・ミニット』をリリース。しかし、デイヴはこの作品のみで脱退してしまう。1999年 - ジョン・フルシアンテが復帰し、アルバム『カリフォルニケイション』をリリース。「スカー・ティッシュ - "Scar Tissue"」で、2度目のグラミー賞を受賞。驚異的なセールスを記録し、現在までの最大のヒット作となる。2002年 - アルバム『バイ・ザ・ウェイ』をリリース。チャドが「very John」と表現したように、ジョン色が全面に押し出されたアルバムとなった。アルバムチャートでは、ついにイギリスで1位を獲得した。2006年 - アルバム『ステイディアム・アーケイディアム』をリリース。初のアメリカアルバムチャート1位をはじめとして、全世界24ヶ国で1位を獲得。日本のアルバムチャートでも、2枚組の洋楽アルバムとしては、史上初の初登場1位を獲得した。先行シングルとなった「"Dani California"」が、同年に日本で公開された『デスノート』の主題歌として採用。同アルバム収録の「"Snow ((Hey Oh))"」も『デスノート the Last name』の主題歌に採用された。また、このアルバムで3度目のグラミー賞を受賞している。2006年 - 7月28日に、テレビ朝日系の音楽番組『ミュージックステーション』に出演。日本のテレビ番組で、生出演や演奏はデビュー23年目で初めて。2007年 - 3月19日の京セラドーム大阪、3月22日・23日の東京ドームの公演は、いずれもアンソニーが「急性肺炎、10日間の絶対安静」との医師の所見のため、3月17日の来日直前になって急遽延期された。2009年 - ジョン・フルシアンテがソロキャリアで自分の志向を突き詰めたいとして脱退。。2011年 - 新ギタリストとしてジョシュ・クリングホッファーが加入し、アルバム『アイム・ウィズ・ユー』を前作から5年ぶりにリリース。リリース間隔として5年のブランクは結成以来最長である。2016年 - プロデューサーとして5thアルバムから前作まで長年起用してきたリック・ルービンの手を離れ、新たにナールズ・バークレイやブロークン・ベルズのを迎え制作されたアルバム『ザ・ゲッタウェイ』を、前作から再び5年ぶりにリリース。アンソニーは、「ギタリストの座が安定しないのは、誰もヒレルの穴を埋められないから」とコメントしている。ジョン・フルシアンテを含めて、ギタリストの座は数々のメンバーチェンジを経験した。また、ジョンを含むこの中の多くがストラトキャスターの使い手である。チリ・ペッパーズは、ファンクとハードロックやパンク・ロックを混ぜ合わせた、いわゆるラップロック、ファンクロック(ミクスチャー・ロック)バンドの一つとして有名である。初期は、フィッシュボーンやジェーンズ・アディクションなどと共に、これらのパイオニアとして活躍し、その評価向上に大いに貢献した。3rd『ジ・アップリフト・モフォ・パーティ・プラン』までは、アンダーグラウンドの活動がメインであったが、4th『母乳』で知名度を上げ、5th『ブラッド・シュガー・セックス・マジック』で世界的人気を誇り、バンドと共に一躍ラップロックやファンクロックといったジャンル自体をメインストリームへと急浮上させた。その後は、度々音楽性を細かく変えながらも、ファンク・パンク色は薄れ、メロディー路線が顕著となり、会心の復帰作7th『カリフォルニケイション』は、『ブラッド・シュガー・セックス・マジック』を凌ぐセールスを記録し、現在までの最大のヒット作となった。音楽面で初期のバンドをリードしていたのはフリーであり、そもそもバンドの結成理由が、フリーのベースラインとアンソニー・キーディスのライミングのマッチングが思いのほか良かったから、というものだったことも含め、まさにバンドの核と言える存在だった。中期以降は、ジョン・フルシアンテの活躍が目覚ましいが、フリーやチャド・スミスらもライブと音源双方において、依然として大きく貢献している。2002年6月、「Graind House magazine」にてフリーが、「同じことを繰り返して、成長しないというのは絶対にイヤだね。人間として成長すれば、音楽も成長し、そして変化する。オレたちは成長したい、変化したいっていつでも思ってる。それが最も重要なことさ」と語っている。これまでの歌詞は、ほとんどヴォーカリストであるアンソニーによるもの。初期から中期にかけての主な題材は、ドラッグや性的倒錯、アルコール、男根主義、パンク的アナキズム、ファンク的快楽主義などであり、その音楽自体ともよくマッチングしていると言えるだろう。キャリアの中期以降は、ヒレル・スロヴァクの死などの様々な影響で、詩的で叙情的な歌詞も多く見られるようになった。彼らの最大の特徴は、ライブでのパフォーマンスにあるとも言える。初期の頃は、アンコールなどでペニスソックス(靴下で局部を隠した以外は全裸)の格好で登場。ある意味、この姿がトレードマークにもなっており、その破天荒な振る舞いが話題を呼んで、彼らは結成後それほど間を置かずに、すぐレコード会社との契約に漕ぎ付けることが出来たが、とあるストリップバーで毛を露出しながら演奏した際は、店長から大目玉を食らったという。これをはじめとし、ロラパルーザ'92では、アンコール時に火吹きヘルメットを着用して、さらにウッドストック'94では、オープニングで巨大な電球の被り物を付けて登場し、「Give It Away」を演奏した。また、カリフォルニケイション期以降も、メンバーのノリによっては、数多くのライブで前述のペニスソックス姿を披露することもある(最近はめっきり減っている)。さらに、ウッドストック'99では、フリーが終始全裸でベースを弾き通した。パフォーマンス中に暴徒化した一部の観客が放火騒ぎを起こし、アンコールではメラメラ燃える炎を遠方に眺め、「Fire」を演奏した。1997年の第1回フジロックでは、アンソニーが腕を骨折したまま、台風の中でライブを敢行。このライブでは、ステージ破損のため30分でライブを強制終了した。また、ステージ上で繰り広げられる即興演奏やジャムセッションも、彼らの評価と人気に繋がっている。同じ曲でも毎回ニュアンスを変えており、同じように演奏することはまずない。フルシアンテ在籍時には、ライブ冒頭と終了時に長いジャムセッションが繰り広げられていた。チリ・ペッパーズが少年期に大きく影響を受けたのは、キッスやレッド・ツェッペリン、ジミ・ヘンドリックスなどのハードロックや、セックス・ピストルズやザ・クラッシュ、ギャング・オブ・フォー、ラモーンズ、ザ・ストゥージズなどのパンク・ロックである(ヒレルとジャック、フリーの3人は、高校時代これらのカバーバンドをやっていた)。フリーの腕には、ジミヘンの刺青が彫られている。チリ・ペッパーズの音楽性を形作る上で影響を受けた、と彼らが語るのは、ジョージ・クリントン(2ndではプロデューサーを務めた)、ファンカデリック、スライ&ザ・ファミリー・ストーンなどのファンクや、パブリック・エナミーなど当時から台頭しつつあったヒップホップである。ジョン・フルシアンテは、これら以外にやパブリック・イメージ・リミテッドなどの前衛アーティストや、フガジなどのハードコアに影響を受ける一方、メロディ・ラインの美しいポップ・ミュージックも少年期に影響を受けたと語る。ライブの合間には、ビージーズの「愛はきらめきの中に」を度々弾き語っていた。アンソニーは、ブラッドシュガーのDVDなどで、パブリック・エナミーのキャップやTシャツを着用している。ライブでこれらのアーティストの楽曲をカヴァー、または共演が多いが、その多くは音源化されていない。

出典:wikipedia

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