霊鷲山(りょうじゅせん、名称については後述)は、インドのビハール州のほぼ中央に位置する山。釈迦仏が無量寿経や法華経を説いたとされる山として知られる。原語では中国や日本では太字は、よく表記されるもの。原語のグリドラあるいはギッジャとはハゲワシのことである。この山のかたちが、空に斜めに突き出すようになっておりしかも頂上部がわずかに平らになっていてハゲワシの首から上の部分(頭)によく似た形をしているから、こう名づけられたと言われている。あるいは山上に霊鷲が多いために名づけられた、との説もある。和語では“わしのみ山”ともいう。現在のラージギルの東方にあるSaila-giriの南面の山腹にあり、にある。現在はチャタ(Chata)山と呼ばれている。釈迦仏が在世した当時では、マガダ国の首都だった王舎城(ラージャグリハ)の東北、ナイランジャナー(尼連禅河=にれんぜんが)の側にある小高い山である。この山は長らくの間、場所も忘れられていたが、1903年(明治36年)1月14日朝、大谷光瑞が率いる第1次大谷探検隊が朝日に照らされたこの山を仏典上の霊鷲山と同一と確定した。数年後のインド考古局第3代目の長官ジョーン・マーシャルの調査によって国際的に承認された。かつてビンビサーラ王も、車を降りてその参道を登ったといい、王の要請により布薩制(ふさつ、懺悔の儀式)を設けられた。『観無量寿経』は、耆闍崛山(霊鷲山)で説法していた釈尊が、説法を中断して幽閉されていた韋提希婦人のもとに現れて説いた経典である。釈迦仏はこの山において多く説法したという記録があるため、『法華経』もこの地で説かれたという設定になったと考えられている。そのため、霊山浄土、霊山会などという語が派生した。一説に、釈迦仏がこの霊鷲山で法華経を説いた期間は8年間とされ、その場所を金山洞(こんせんどう)ともいう。京都の霊山正法寺を本寺とした霊山派という時宗の一派がかつて存在した(現在は本宗に合同されている)ほか、行基が創建した奈良県の霊山寺をはじめ、この山の名前を模した寺院が日本国内に多数存在する。具体例
出典:wikipedia
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