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小笠原事件

小笠原事件(おがさわらじけん)は、1945年(昭和20年)に小笠原諸島父島において日本の陸海軍高級幹部が、アメリカ軍航空部隊の搭乗員である捕虜8名を処刑し、そのうち5名の人肉を嗜食した事件。父島人肉食事件とも。当時の父島は住民を疎開させた上で要塞化(父島要塞)されており、陸軍の立花芳夫陸軍少将以下の混成第1旅団(3月に第109師団に改編、立花は陸軍中将に昇進し同師団長)と、海軍の森国造海軍少将以下の父島方面特別根拠地隊(5月に森は海軍中将に昇進)が駐留していた。本事件はそれら立花・森両将官および、独立歩兵第308大隊長的場末男陸軍少佐・父島方面特別根拠地隊通信隊司令吉井静雄海軍大佐といった、日本陸海軍の守備部隊において高級幹部として要職にある者が主犯となり犯した戦争犯罪である。大戦末期、補給が崩壊し餓死・病死者の続出する飢餓状態に陥った各南方戦線(ニューギニア戦線・ビルマ戦線・フィリピン戦線等)において、生存する為に戦死した友軍・敵軍将兵の人肉をやむを得ず食した事例は存在するものの、本件はそれらとは大きく性格が異なる事件であった。舞台となった父島は空襲のみで地上戦はおきておらず、現地自活が営まれ食糧事情は極端には悪くなく補給はある程度確立されており、人肉嗜食は恵まれた立場に居る陸海軍幹部が酒宴の場にて敵愾心高揚・士気高揚を目的とし行ったものであった。1945年2月、まずは末吉実郎海軍大尉が的場陸軍少佐を経由して入手した捕虜を海軍において処刑、的場陸軍少佐らが独歩308大においてこの遺体を大隊附軍医に解体させ摘出した肝臓等を嗜食。同月、新しく捕虜となった2名の内、1名は陸軍にて立花陸軍中将の旅団長命令によって処刑・嗜食、もう1名は海軍にて処刑され吉井静雄海軍大佐らが特根通信隊において肝臓等を嗜食。また、23日には1名を立花陸軍中将の依頼により海軍において処刑・嗜食。後の証言によれば、立花は米兵の手足の肉や内臓を食べると、「これは美味い。お代わりだ!」と喜んだという。第109師団参謀として司令部のある硫黄島から父島に派遣されていた堀江芳孝陸軍少佐は、立花らの素行にかねてから不安を感じており、捕虜の将校を自分の英語教師として身近に置くことで守っていたが、3月26日、外出後に戻るとすでに処刑され森海軍中将・的場陸軍少佐らによって喰われた後であった。的場陸軍少佐の部下の供述調書によると、犠牲者の一人であるウォーレン・アール・ボーン(Warren Earl Vaughn)中尉の処刑・嗜食時に的場が発した命令は次の通り。日本の敗戦後、9月2日に父島に上陸した米軍は捕虜の行方を調査し、事実を知り驚愕する。的場大隊および関係者を拘束して事情聴取し、1946年2月に立花陸軍中将・的場陸軍少佐・森海軍中将・吉井海軍大佐、また酒宴に参加するなどした27名(29名説あり)をBC級戦犯としてグアム軍事法廷にて起訴した。なお米軍は「人肉嗜食」ではなくあくまで「捕虜殺害」「死体損壊」として審理を行っている。その結果、立花・的場・吉井ら5名が死刑、森(別途、蘭印作戦後第23特別根拠地隊司令官当時の捕虜虐待事件によりオランダ軍による裁判で死刑)ら5名が終身刑、15名が有期刑となった。立花らは処刑されるまでの間、米兵たちの憎悪の対象となり激しく虐待され続けた。当時、第二魚雷艇隊の少尉候補生で、後に日本弁護士連合会(日弁連)の会長になった土屋公献は、父島に配属されており、ボーン中尉と会話を交わす機会が幾度かあったばかりか、処刑当日は、彼を処刑場に連行する役も務めていた。しかも、初めはボーンの処刑役まで務める予定であった(途中で、処刑役を学徒出陣組の中にいた剣道四段の人物と変更させられる)。処刑されるまでボーンの身近にいた土屋は、POW研究会の取材に対し、この事件の内容を否定している。飢餓状態で理性を失った二人の兵士がボーンの遺体を掘り返そうとした事はあったものの、それも当直将校であった土屋が戒めており、食人に供され、祝宴が開かれたなどという事実はなかったという。

出典:wikipedia

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