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長暦 (暦)

長暦(ちょうれき)とは、長期にわたる暦日を復元・集成した書物である。太陰太陽暦が行われていた近代以前の中国や日本ではたびたび改暦が行われたため、現行の暦が用いられる以前の暦日について不明になる場合があった。そのために過去の暦日について記載された長暦は重んじられた。中国では劉義叟が作成した長暦を元にして、司馬光が『資治通鑑』を執筆したと言われている。日本では長い間宣明暦が使われていたため、長暦が作成されることはなかったが、貞享暦への改暦に尽した渋川春海が、貞享暦の編纂に先立って延宝5年(1677年)『日本長暦』を作成した。続いて貞享4年(1687年)に会津の和算家・安藤有益が『本朝統暦』、正徳4年(1714年)に中根元圭が『皇和通暦』を刊行した。『皇和通暦』は『日本長暦』が出した暦日に対して実際の史書・記録・暦類を元に訂正を加えたものであり、『日本長暦』の校訂書として重んじられた。明治政府成立後、太陽暦導入を期に『日本長暦』・『皇和通暦』の改訂が企てられ、明治13年(1880年)に内務省地理局より『三正綜覧』が刊行された。だが、暦学や歴史学の専門家から問題点が指摘され、昭和7年(1932年)に神田茂によって『年代対照便覧』が刊行された。また、自身は長暦を編纂しなかったが、小川清彦によって長暦の暦日の検証・研究が行われた。その後、昭和50年(1975年)に内田正男が電子計算機を用いて『日本長暦』以来の長暦の暦日に対する全面的な検証を行い、その結果に基づく訂正を加えた『日本暦日原典』を刊行した。日本書紀に記述される初期の天皇の年齢、在位期間は、現在人と比較し異常で長大的だが(欠史八代の記事を参照)普通は単に「神話」的時代の「神話」的記述、であるとして扱われている。しかし、吉田六雄など、ホツマツタヱの研究者によれば、日本書紀ではその原因は未だ立証されていないとする。ホツマツタヱ研究者は、一般に古史古伝すなわち偽書とされているホツマツタヱについて、「記紀の原書」であり、神代~十二代景行天皇までを記述していることから、日本書紀以上の内容が記述されており、日本書紀の欠点を補うには余りある文献である、と主張している。以下の記述は主として、吉田六雄による、日本書紀の欠点を補うため、古事記・日本書紀よりも古いホツマツタヱと、長暦を検証できる唯一の資料である「文献集 不知火」に基づいた研究である。長期にわたる暦日を復元・集成した暦であって、近代の暦学を基に作られた太陰太陽暦、太陽暦などの暦尺度と比較した場合、年齢、在位年数などが相対的に長大に表示される暦を長暦(暦)と称する。なお、日本の元号の長暦(ちょうりゃく)との類似表記性を避けるため、長暦(暦)と記述する。日本書紀には、景行天皇の皇后の稲日大郎姫が日本武尊を妊娠しお産されるまでの月数は記述されてない。(妊み月、期間は未記載)ホツマツタヱには后のイナヒオイラツ姫が、「二十一月を経て二年の師走の望にモチヒトのオウス皇子、ハナヒコのコウス皇子(ヤマトタケ)の双子をお生んだ。」との長大な記述がある。現在の妊み月の十月十日を基準にすると、二十一月は約2倍強になる。他にもヰツセ君を十五月に生む、十六月妊みクニチワケを双子生む記述がある。また、歴史的に見ると、ワカヒト(アマテル神)が生まれる古の記述には、「十月に生まず」があり、古も十月で生まれていたことが推測される。それが新しくなるキヨヒト(ニニキネ)~タリヒコ(景行天皇)の頃には、十五月、二十一月、十六月の長大な妊み期間が出現して来る。(ホツマツタヱ_安聰本より引用)また、生理学上、妊娠中の十ヶ月になるお腹の子は一日に約140g増えると云われ、十五ヶ月~二十一ヶ月時の体重は容易に推定することができないが、生体観察、人体学上からも「二十一月を経て二年の師走の望に双子をお生んだ。」とする記述は、近代暦の一年を平均約三百六十五日とする太陰太陽暦、太陽暦からは否定されるようである。然るに先の「二十一月は約2倍強」より2倍化暦の長暦(暦)が潜在的に使用されていたと推定され、十五月~二十一月の妊み月は、現在のお産でも有り得る七月~十月十五日に該当し古代の記述を近現代の尺度に変換しても無理ないようである。景行天皇の条日本書紀(朝日新聞社本)・二年春三月丙寅朔戊辰。立播磨稲日大郎姫為皇后。后生二男。第一曰大碓皇子。第二曰小碓尊。其大碓皇子。小碓尊。一日同胞而双生。天皇異之。則誥於碓。故因号其二王曰大碓。小碓也。是小碓尊。亦名日本童男。亦曰日本武尊。ホツマツタヱ(安聰本_直訳文)・若宮の 初暦 二穂弥生 備津彦が女 立つ后 播磨のイナヒ オイラツ姫 内待の時に 去年四月 妊みて生まず 二十一月 経て師走望 碓端に 餅花なして 双子生む 兄の名モチヒト オウス皇子 弟の名ハナヒコ コウス皇子日本書紀とホツマツタヱについて、暦の基本概念である冬至(冬至~冬至までを一太陽年と云う。)の表示を比較して見ると、日本書紀では、第37代斉明天皇五年(西暦六五九年)の十一月一日の条に「朝有冬至之会。」が初見されるが、それ以前には冬至の記述がない。それに対しホツマツタヱでは、初代タケヒト(神武)天皇の以前に「冬至る日に 大祭り」の記述がある所から、初代タケヒト(神武)天皇~第十二代タリヒコ(景行)天皇間においても太陽暦の概念があったと云える。だが、第十二代タリヒコ(景行)天皇の御世に記述されていた妊み月二十一月などは、太陽暦の概念に合わないようである。冬至の記述日本書紀(朝日新聞社本)・《斉明天皇五年(六五九)七月戊寅【三】》◆秋七月朔丙子朔戊寅。・・・(中略)・・・十一月一日。朝有冬至之会。々日亦覲。所朝諸蕃之中。倭客最勝。後由出火之乱。棄而不復検。・・(後略)・・・。ホツマツタヱ(安聰本_直訳文)・君受けて 勅使去る時に 勅り 冬至る日に 大祭り アマカミ(天神)と世々 スヘラ神 ユキスキの宮 山海と トミ(臣)功魂は ハニスキの 嘗会に告げて 人草の 祝ぎ祈るなり景行天皇十八年、天皇自ら筑紫を巡幸されたおりの五月初日に不知火が現れたとの記述が、日本書紀、ホツマツタヱに記述されている。だが、現在において、不知火が現われる日は、旧暦8月1日前後になる。西暦に換算すると年毎に違うが、8月25日~9月22日の範囲になる。このように古代と現在では、不知火の発生月が約3ヶ月も違うが、初代タケヒト(神武)天皇の以前に「冬至る日に 大祭り」の記述がある所から見ても、暦の起点を間違えていたとは思われないようである。況して、現在でも毎年、同じ頃に発生している自然現象が、約3ヶ月もズレて来るとは思われない。併せて、このことからも見ても、日本書紀やホツマツタヱの暦法が、近代の太陰太陽暦、太陽暦と違っていたことが容易に推定される。不知火が現れた記述の条(1)日本書紀(朝日新聞社本)・《景行天皇十八年(戊子八八)五月壬辰朔》五月壬辰朔。従葦北発船到火国。於是日没也。夜冥不知著岸。遥視火光。天皇詔挟杪者曰。直指火処。因指火往之。即得著岸。天皇問其火光之処曰。何謂邑也。国人対曰。是八代県豊村。亦尋其火。是誰人之火也。然不得主。茲知非人火。故名其国曰火国。(2)ホツマツタヱ(安聰本_直訳文)・十八年三月・・・(中略)・・・・サ(五)月初日に 船馳せて 行く八代え 日の暮れて 着く岸知れず 火の光る 所え指せとの 勅り 岸に上りて 何村と 問えば八代 トヨ村の 炊く火お問えば 主お得ず 人の火ならず 知らぬ火の 国と名付くる(3)文献集 不知火 (発行:熊本県不知火町、発行日:平成5年4月1日)より引用・不知火は旧暦八朔(新暦八月二十五日~九月二十二日頃)深夜の干潮(二時~四時)時に 暗黒の海上に現われる神秘の火である。昨今では、不知火の成因は、気温の異なる大小の空気塊の複雑な分布の中を通り抜けて来る光が、屈曲を繰り返して生じる光学的自然現象というのが定説になっている。そして、光源は、民家等の灯や漁火などである。そのため、(注記)条件が揃えば、有明海の不知火は大晦の日に見えるなどと云われるのもその一例である。唯、前述のように八代海北部は条件の特に整い易い地域であり、例年の旧暦八朔に現われる火となっている。(不知火の調査:熊本大学)  (注記)「不知火の謎解き」HPを参照                   .日本書紀、ホツマツタヱの第16代までの天皇の年齢、在位年数は、第17代履中天皇~近代の明治、大正、昭和天皇および、周辺諸国の太陽暦の年代(新羅など)と比較しても相対的に長大である。(1)天皇の年齢①出典_日本書紀 (朝日新聞社本)                                          神武天皇127歳、綏靖天皇84歳、安寧天皇57歳、懿徳天皇(歳未記入)、孝昭天皇(歳未記入)、孝安天皇(歳未記入)、孝霊天皇(歳未記入)、孝元天皇(歳未記入)、開化天皇105歳、崇神天皇120歳、垂仁天皇140歳、景行天皇106歳、成務天皇107歳、仲哀天皇52歳、神功皇后100歳、応神天皇110歳、仁徳天皇(歳未記入)。②出典_ホツマツタヱ_安聡本神武天皇(歳未記入)、綏靖天皇84歳、安寧天皇70歳、懿徳天皇(歳未記入)、孝昭天皇113歳、孝安天皇137歳、孝霊天皇118歳、孝元天皇117歳、開化天皇111歳、崇神天皇(歳未記入)、垂仁天皇137歳、景行天皇(歳未記入)、(但し、ホツマは景行天皇の55年で終了)(2)天皇の在位年数①出典_日本書紀暦日原典(編著:内田正男)神武天皇76年(後空白3年)、綏靖天皇33年、安寧天皇38年、懿徳天皇34年(後空白1年)、孝昭天皇83年、孝安天皇102年、孝霊天皇76年、孝元天皇57年、開化天皇60年、崇神天皇68年、垂仁天皇99年、景行天皇60年、成務天皇60歳、仲哀天皇9歳、神功皇后69歳、応神天皇41歳、仁徳天皇87歳 ②出典_ホツマツタヱ_安聡本神武天皇76年、綏靖天皇36年、安寧天皇38年、懿徳天皇34年(後空白1年)、孝昭天皇83年、孝安天皇102年、孝霊天皇76年、孝元天皇57年、開化天皇60年、崇神天皇68年、垂仁天皇99年、景行天皇60年(但し、ホツマは55年で終了のため参考年)③出典_新羅の歴史年表新羅時代:B.C57年~A.D995年まで約992年間、56代の王の平均在位年数は17.7年になる。内訳_B.C57~A.D196(9人)28年、A.D196~A.D402(8人)25.8年、A.D402~A.D579(8人)22.1年、A.D579~A.D800(14人)15.7年、A.D800~A.D935(17人)7.9年長期にわたる暦日を復元・集成した長暦を成す日本書紀暦は、全天皇の御世と次の天皇の初年は、歴史的に連続した暦のよう思われており、神武天皇の76年と綏靖天皇の元年も例外でなかった。だが、日本書紀暦日原典を見ると、神武天皇の76年と綏靖天皇の元年の間は3年の御世の空白年があり、この3年を埋めるように年の干支で、丁丑、戊寅、己卯の年が追加し記述されていた。このことについては、暦日を復元・集成した時の原暦があれば見たい(注記)ものである。ホツマツタヱのアスス暦では、神武天皇76年と綏靖天皇の初年(アスス134年)は連続したヱトの年であり、日本書紀暦日原典で空白年となっていた三年分は綏靖天皇が早く即位しており、綏靖天皇の御世は36年間であった。日本書紀暦日原典より抜粋 (  )内は、干支の順位番号を示す。神武天皇76年、丙子 (13) 3月11日甲辰(41)空白年     丁丑 (14)同 上     戊寅 (15)同 上     己卯 (16)綏靖天皇 元年、庚辰 (17) 正月 8日己卯(16)ホツマツタヱより抜粋   (  )内は、ヱトの順位番号を示す。タケヒト        76年、ツアヱ(13) 弥生10日キヤヱ(41)ヤスギネ、アスス134年、初年、ツアト(14)    初日サナヱ(57) (注記)3年間の空白年    神武天皇76年、綏靖天皇元年の記述について、改めて、月、日、日の干支を、日本書紀、ホツマツタヱについて、上のように記述しました。その結果、    両書の月、日、日の干支が違っておりました。また、両書の年、月、日を儀鳳暦の計算式で検証した結果、両書とも、日の干支が記述にほぼ一致しました。    このことから、日本書紀とホツマツタヱの暦日の違いは、綏靖天皇の御世を33年(3年の空白年)と見るか、36年(空白年なし)と見るかにより    違ってくるようです。日本書紀には、朔望月の元になる望(満月)が記述がない。。ホツマツタヱには、タケヒト(初代・神武天皇)~タリヒト(十二代・景行天皇)間において、11個所の望(満月)の記述がある。だが、天皇の年齢、在位期間が長大化していると云われるアスス暦当時の満月~満月までの一朔望月と、天文学で立証されている現在の一朔望月とを比較する場合において、その一朔望月の日数が一致するか否かである。その一朔望月を比較検証できる相対的な尺度をホツマツタヱより捜すと、唯一、景行天皇十八年の「天皇自ら筑紫を巡幸されたおりの五月初日に不知火が現れた」との自然現象の記述に至る。だが、自然現象である不知火でさえも、現在に不知火が現れる月日は「旧暦の八朔」となり、約三ヶ月のズレが見られた。このことからも、長期にわたる暦日を復元・集成した書物の長暦の暦であっても、その絶対日数、年数を糺す尺度は、自然現象や天文学を持って判断することになる。望(満月)の記述(ホツマツタヱより抜粋)NO, アスス穂 天皇名    望の記述(1)   133   神武天皇   七十六年  睦月の望(2)   138   綏靖天皇   (五年)サヤト(18) なが望(3)   445   孝霊天皇   十八穂春  初望(4)   514   孝元天皇   十一年弥生 望(5)   573   開花天皇   サ(五月)の望(6)   703   垂仁天皇   十五年の 如月望に(7)   721   垂仁天皇   ネ(十一)月望(8)   790   景行天皇   師走望(9)   792   景行天皇   四穂如月望(10)  800   景行天皇   ハ(八)月望(11)  829   景行天皇   師走の望日本書紀とホツマツタヱの初代~第12代までの各天皇の初年について、即位時の季節の表示を比較して見ると、日本書紀では、春秋冬のいずれかが表示されていた。それに対しホツマツタヱでは、12件中5件には表示があるが、反対に7件には表示がない。更に、ホツマツタヱにおいて、天皇の御世を表すアスス暦の年代を奇数年と偶数年に分けて季節の表示数比較して見ると、奇数年には3件中3件とも春冬のいずれかが表示してあるが、偶数年では、9件中7件に季節の表示がない。但し、残りの2件には春冬の一方が表示あり。この偶数年に季節の表示が少ないと云う現象は、即位の月と季節ズレがあったことが推定される。仮にアスス暦の原暦(1倍化暦)→2倍化暦の長暦(暦)を試行して見ると、7月(秋)~12月(冬)が偶数年に当たり、7月(秋)→1月(春)に変換されるようである。そのため、ホツマツタヱは、季節を表示できなかった。一方、日本書紀では、変換後の春を表示したことが推定される。(1)奇数年(アスス暦換算年)『日本書紀(朝日新聞本)』NO アスス暦換算   天皇の即位年                  (季節の抜粋)1   243年    《孝昭天皇元年(前四七五)》元年春正月丙戌朔甲午。 (春)2   561年    《開化天皇元年(前一五七)》冬十月丙申朔戊申。   (冬)3   621年    《崇神天皇元年(前 九七)》元年春正月壬午朔甲午。 (春)4   689年    《垂仁天皇元年(前 二九)》元年春正月丁丑朔戊寅。 (春)『ホツマツタヱ(安聰本)』NO   アスス暦    スメラギ(天皇)の即位年   ( )内の数字は、ヱトNO,を示す。 (季節の抜粋)1   243年    《孝昭天皇》天鈴二百四十三年ツミヱ( 3)春ム(睦)月ツウヱ(23)初  (春)2   621年    《崇神天皇》天鈴六百二十一年キナヱ(21)春ム(睦)月ネシヱ(19)初  (春)3   689年    《垂仁天皇》天鈴六百八十九年ネヤヱ(29)春ム(睦)月ツアト(14)初  (春)(2)偶数年(アスス暦換算年)『日本書紀(朝日新聞本)』NO アスス暦換算   天皇の即位年                   (季節の抜粋)1   58年    《神武天皇元年(前六六〇)》辛酉年春正月庚辰朔。   (春)2   134年    《綏靖天皇元年(前五八一)》元年春正月壬申朔己卯。  (春)3   170年    《安寧天皇元年(前五四八)》元年冬十月丙戌朔丙申。   (冬)4   208年    《懿徳天皇元年(前五一〇)》元年春二月己酉朔壬子。   (春)5   326年    《孝安天皇元年(前三九二)》元年春正月乙酉朔辛卯。   (春)6   428年    《孝霊天皇元年(前二九〇)》元年春正月壬辰朔癸卯。   (春)7   504年    《孝元天皇元年(前二一四)》元年春正月辛未朔甲申。   (春)8   788年    《景行天皇元年(  七一)》元年秋七月己巳朔卯己卯。 (秋)『ホツマツタヱ(安聰本)』NO  アスス暦    スメラギ(天皇)の即位年                  (季節の抜粋)1   58年    《神武天皇》年サナト(58)初日サヤヱ(17)に          -2   134年   《綏靖天皇》天鈴百三十四年ツアヱ(13)春初日サナヱ(57)  (春) ← ヱトがツアヱ(13)のため、133年(奇数)の可能性あり。3   170年   《安寧天皇》天鈴百七十年ネアト(50)アフミ(七)三日     -4   208年   《懿徳天皇》天鈴二百八穂サミト、キサラ(二)四日ネアヱ(49) - 5   326年   《孝安天皇》天鈴三百二十六年初のナカ              - 6   428年   《孝霊天皇》天鈴四百二十八年初十二日              - 7   504年   《孝元天皇》天鈴五百四穂ム(睦)月十四日            - 8   560年   《開化天皇》天鈴五百六十穂冬メ(十)の十二日          (冬)9   788年   《景行天皇》天鈴七百八十八穂のフ(七)月十一日         -長期にわたる暦日を復元・集成した暦は、なぜ長暦(暦)になるか。この原因を考える時、長期にわたる暦日を復元・集成した暦の原古記録は、どのような古代の暦法で成りたっていたか不明であろうと推定される。その原古記録を近代的な暦法の考えに準じた暦日の古記録に変換し、近代的な暦法で再現した場合は、表示される暦日(年、月、日、干支)を判断する暦基準は不明な筈である。だが、上の古代の原暦法を無視し、近代的な古記録に修正された暦日を近代的な暦法で計算しようと試みたため、長暦(暦)が再現したものと推定される。だか、このような推論を日本書紀および日本書紀暦に求めても無理があり、過去の偉人達が日本書紀の長暦(暦)の原因究明に果敢に挑戦したが、未だその研究結果を是とした発表資料を見るに至ってないようである。このことを裏付けるように、『日本書紀暦日原典』を刊行した内田正男は、『暦の語る日本の歴史(編者:内田正男)』の13頁の中で『日本で前七世紀(『日本書紀』の神武の巻に、「甲寅の年の冬十月の丁巳の朔の辛酉の日に、天皇親ら皇子、船師をひきいて東を征ちたもう」の記述を指す。)のころに暦日があるはずのないことは、さきほどの『魏志倭人伝』を見るまでもないであろう。それに干支を年にまで用いるようになったのは中国でも前三世紀のころといわれている。』と記述しております。そうすると、神武天皇の前紀より始まる日本書紀でさえ、今は無き長期にわたる暦日を復元・集成した暦を日本書紀暦に置き換えたと述べているようです。このような日本書紀の長暦(暦)の壁を乗り越えるためには、日本書紀か編纂されたる以前の文献を発掘し調査・研究する以外には解決策がないと推測され、今は偽書とされるホツマツタヱにその解決策が隠されていることが最近の市井の研究により判明つつある。今後、このことより長暦(暦)に至った原因が解明される日も近いようである。

出典:wikipedia

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