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松前城

松前城(まつまえじょう)は、北海道渡島総合振興局管内松前町にあった日本の城(平山城)。福山城(ふくやまじょう)とも呼ばれる。石田城と並び日本における最後期の日本式城郭である。北海道内で唯一つの日本式城郭である。戊辰戦争の最末期に蝦夷が島(北海道)の独立を目指す旧幕府の軍(元新選組の土方歳三が率いていた)との戦いにおいて落城した。天守は1949年(昭和24年)6月5日に失火により焼失した。そのため、創建当時から現存する建築物は切り妻造りの本丸御門と本丸表御殿玄関(北海道有形文化財)および旧寺町御門(現在の阿吽寺の山門)のみである。旧国宝の本丸御門は、1950年(昭和25年)の文化財保護法施行後は重要文化財に指定されている。曲輪も天守が焼失した際の火災に巻き込まれず、焼け残った古い建築物である。曲輪・石垣などもよく残り、旧城地一帯が国の史跡に指定されている。2001年(平成13年)には北海道遺産(「福山城と寺町」)に選定された。2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(3番)に選定され、2007年(平成19年)6月から全国規模の日本100名城スタンプラリーが開始された。1953年(昭和28年)に松前駅まで開通した国鉄松前線の松前トンネルが敷地の下を通っていたが、JRへの民営化後の1988年(昭和63年)に松前線が廃止され、トンネルも封鎖されている。蠣崎家(後の松前家)が居城としていた大館より福山(現在の松前城の位置)に移り、1600年(慶長5年)から慶長11年にかけて陣屋を築いた。後にロシア艦隊などが来航すると幕府は、1849年(嘉永2年)に北方警備を目的に、松前崇広に福山館改築(松前築城)を命じた。築城計画の際、現在地の福山ではなく、地形的に要害となりうる箱館の臥牛山(函館山)に築城するべきという意見もあったが、城下の商人が城が移転することで経済的打撃を受けて松前港は寂れてしまうとの反対意見や予算があまりないということもあって、当時の松前氏の居館であった福山館を拡張する方法で落ち着き、三の丸から本丸までを津軽海峡に向けて雛壇式に築城した。長沼流兵学者・市川一学の縄張りにより旧福山館の拡張・改築を行い、この時に初めて3重の天守を上げ、1854年(安政元年)に竣工し、この頃から松前城と呼ばれるようになったと伝わる。海側からの艦砲射撃に備えて砲台を備え、かつ城壁の中に鉄板を仕込んでおり、城の本丸方の虎口から本丸までの通路は複雑かつ側面から鉄砲などで射撃しやすい構造とした。天守や櫓、門の屋根には、寒さで凍み割れやすい粘土瓦のかわりに銅板を葺いた。通常、天守の壁は柱の間の竹で編んだ骨組みに壁土を塗りこむが、ロシア戦の砲撃に耐えられるように、中に硬いケヤキ板を仕込んで備えとした。石垣の石は付近の山で採れる、比較的柔らかく加工しやすい緑色凝灰岩が使用され、緑色の石垣に覆われた全国でも珍しい城であった。北地のために石垣の奥の土が解凍の際に流れ出してしまわないよう、隙間のないように石が敷き詰められるなどの工夫がなされている。ノミで丹念に整形し、隙間なく積んだ石は亀の甲羅の模様に似ているため、亀甲積みとも言われている。ただし城の中心である福山の台地から海岸まではあまり距離がなかったので、大規模な城郭とすることはできなかった。石垣の積み方も参照。幕末の築城にも関わらず、松前城は激しい攻防戦を体験している。1868年(明治元年)秋、蝦夷地に独立政権樹立を目指す旧幕府の榎本武揚を首領とする軍勢は、官軍の拠点である五稜郭を制圧した後、11月5日には元新選組の土方歳三が700名ほどを率いて松前城を攻撃した。松前藩兵は防戦に努めたものの、わずか数時間で落城した。これは、旧幕府軍軍艦の艦砲射撃もさることながら、城の構えがあまりに脆いものであったためである。長沼流の軍学者であった市川は、大手門からの通路は曲がりくねって鉄砲の的になりやすい効果的な構えとしたが、搦手方は敵は攻めてこないものとして、直線に通路が続き鉄砲狭間も少ない防御力の低い配備としていたのである。これを土方に衝かれた形となってしまった。現在も石垣にこのときの弾痕がいくつも残っている。しかし、翌1869年(明治2年)に榎本らの政権は降伏し、再び松前城は松前氏の領有となり、1871年(明治4年)の廃藩置県の施行により城は明治政府の領有となった。1875年(明治8年)には天守など本丸の施設を除くほとんどの建築物が取り壊された。そして、松前城の石垣を再利用して松前波止場と呼ばれている岸壁が整備された。#松前港福山波止場を参照。その後、1941年(昭和16年)に天守、本丸御門、本丸御門東塀が国宝保存法に基づき当時の国宝(現行法の「重要文化財」に相当)に指定されたものの、1949年(昭和24年)6月5日に城跡にあった松前町役場からの出火が飛び火して天守と本丸御門東塀は焼失した。5日午前1時10分頃に松前町役場当直室から発火したとされ、当時の毎日新聞によると出火原因は宿直の町職員が電灯に毛布をかぶせてコタツ代わりにしたのが過熱したものとみられるという。損害は松前城だけで当時のお金で2000万円と推定されている。天守は鉄筋コンクリート造で再建されることになり、1959年(昭和34年)7月から焼け跡の敷地の整理が行われて同年8月から本格的に再建工事が始まり、1960年(昭和35年)9月に外観工事が完成し、その後第2期工事などが行われて1961年(昭和36年)5月16日に落成し、松前城資料館となっている。この復元工事の完成に伴う式典には松前家子孫も来町し、松前の旧城下町で大名行列が行われた。2010年(平成22年)からは天守閣の本格的な復元を検討することになり、同年5月に松前城整備審議会が発足して論議を本格化させた。2011年(平成23年)の耐震診断で鉄筋コンクリート造の復興天守閣が「国の耐震基準を下回っていて震度6で倒壊の恐れがある」とされたため、補強か復元かの判断を迫られることになった。1991年(平成3年)の発掘で「松前藩史」で売却して士の窮乏救ったとされていた銅瓦の破片と推測される金属片が福山城跡の東角付近から出土し、その記述の裏付けになると注目された。1992年(平成4年)の発掘では外堀の発掘が行われ、三の丸の下部に約180年前の石垣がそのまま残っていることが確認された。1994年(平成6年)の発掘では松前城搦手御門跡の発掘が行われて約120年前の石垣の根石が確認され、本丸しのぐ幅27メートルの大規模のものであったと考えられるようになった。1995年(平成7年)の発掘では福山城太鼓櫓跡の発掘が行われると共に、福山城の5番台場と6番台場の位置や規模を確認する発掘調査が行われた。1996年(平成8年)の発掘では番所跡の発掘が行われ、その位置や規模を確認が行われた。こうした発掘調査や古い写真などを基にして築城当時と同じ石材で南東部を復元する工事が進められ、2000年(平成12年)に外堀に架かる木橋と石橋のほか「搦手二ノ門」が復元され、2002年(平成14年)に「天神坂門」が復元された。2005年(平成17年)に松前町神明の山中で松前城石切り場跡が発見され、2007年(平成19年)に15カ所の作業跡や「矢穴」が確認された。1992年(平成4年)9月に松前町松城のバス待合所が商家の土蔵風に改装されるなど北海道道松前港線の拡幅工事に伴う旧城下町地区の再整備事業においては、松前藩時代を思わせる日本の伝統的な町屋造りで商店街の建物の外観を統一し、「最北の城下町」や「小京都」と呼ばれた町並みの再興を目指した。北海道道松前港線は2006年(平成18年)の「沖口広場」の完成と共に「城下通り」と命名された。松前城址を中心とする約15万m²の松前公園には約250種・8000本の桜が植えられており、毎年春の「松前さくらまつり」には20万人以上の花見客が来訪している。1984年(昭和59年)からは8月に「松前城下時代まつり」が開催されている。1875年(明治8年)、商人の栖原小右衛門は資金を集め松前城の解体石材を再利用して船着き場を建設した。1892年(明治25年)にセメントを用いた大規模改修が行われ、戦後、現在の松前港が整備され役割を終えるまで船着き場として利用された。松前城の石垣を再利用した築造であり近代土木技術の遺構として高く評価され、2014年度(平成26年度)には公益社団法人土木学会によって選奨土木遺産に認定された。

出典:wikipedia

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